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認知症当事者と運転免許証 [感じたこと]

最近は、もっぱらFacebook(www.facebook.com/DAYSBLG)で更新しちゃっているから、ブログの更新が億劫になっていたり。でも、出会う方々から「ブログ見ています!」なんて言われると、ちょっと更新しなくちゃなぁと思ってみたり。

まぁ、ここ数日話題となっているのが「認知症と道交法」について。何やら、3月10日に改正案が出される?とかで、周りがざわつき始めてきている感じ。

でもね、認知症と診断されたからといって、直ぐに運転してはいけないのだろうか?例えば、もしあなたが「最近ちょっと・・・」と思ってかかりつけ医へ受診し、紹介状を書いてもらって、大学病院で検査を受けるため高速道路を運転して行くとしよう。大学病院での検査結果は「アルツハイマー型認知症」と診断。

頭の中が真っ白になり、ショックで、とても落ち込み、現実が受け止めきれない状態で、でも車を運転して帰らなければならない。そんな中、ボーっとしていたら高速道路の出口から進入。翌日の新聞やニュースには『認知症の人が高速道路を逆走!』という見出し。

世間からは「またか!困ったものだ。認知症の人に運転なんかさせるからだ!」と煽られる。

でも本人の状況や背景などは報じられない。だから結果だけが歩き始めてしまう。あなたは、診断される前と後の数分で何かが変わったの?診断されたから運転ができない人になったの?

違うよね。
たまたま、ショックでボーっとしてしまっていただけ。だけど、世間は、そうは受け止めない。

さぁ、タイトルに戻ります。

法整備をしたからといって、どうにかなるのだろうか?そこに本人の「運転がしたい」「車がないと生活が成り立たない」などの声はどうするの?
ここで大事なのは3つ。
①想いを知ることのできる人
②環境を整える
③モノをつくる
 ↓
例えば、①運転免許センターの職員が認知症サポーター養成講座を受けても効果がない。その人の立場になって想いを受け止め、考えることのできる人になる必要がある。and more...
②山間部等で生活している人たちにとっては、車は生活必需品と言っても過言ではない。例えば、Give a bus(or taxi)みたいに、相乗り型目的地経由循環の車を準備してみる。and more...
③車企業が自動運転を取り入れつつも「運転する楽しさ」を残し、危険回避装置を標準装備。誰にとっても安全で楽しく、乗りたい車や走れる道路、そしてPA・SA・旅館やレストラン・ショッピングセンターなど、目的地すべてが行ける場所に。and more...

つまり①②③どれもが必要であって、どれも欠けてはならない。人・環境・モノ、それぞれが少し変われば社会は変わる。そして社会が変われば法律も変わらざるを得ない。

法律とは後から付いてくるもの。法制度ありきで考えていくと、息苦しい。生き苦しい。自由でありたい、だって人間の本質だから。そして自由であるためには①②③を一歩進めてみる、だって自分の行く道だから。


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名古屋高裁の件で思うこと。 [感じたこと]

ご無沙汰のご無沙汰 × 100 = 久し振り。

この更新の遅さは記録的。そして、この期間に色々あり、自分自身の体調を崩して皆に心配を掛けたり、改めて仲間の存在やつながりに感謝したり。

ところで今回、なぜ更新をしようと思ったか。それは最近、世間で話題となっている「認知症が原因で行方不明になる人が年間1万人」「JR東海の人身事故による名古屋高裁の判決を受けて」等々の議論が盛んになっている。議論されること自体は良いのだが、とても大切なことが抜け落ちたまま議論されているように感じているからだ。

このことについて、最近FMラジオのJ-WAVE『JAM THE WORLD』

 

http://www.j-wave.co.jp/original/jamtheworld/break/140521.html

出演させていただた時にお話しようと思っていたが、時間等の都合で叶わなかったので、改めてこの場で感じていることを書いてみようと思う。

現在議論されていることは大きく分けて次の2点だ。

①〈事故が起きる前の予防〉・・・地域や社会で見守る体制づくりを更に構築していく

②〈事故が起きた後の責任〉・・・国が制度等を整備し保障していく

今回の判決では家族の保護責任や企業の安全管理体制の不備が問われていたが、家族としては24時間365日の見守り責任は無理な話。じゃあ、介護保険サービスの利用や実費のヘルパーさんで対応、これも無理がある。だって、介護保険制度の在宅サービスは生活の一部であって、全部ではない。生活に合わせてピンポイントで利用していくもの。実費のヘルパーさんでも対処的であって、限定的だ。

だからといって、企業側に全て被ってもらうというのも今後を考えると難しい。 

2014年4月1日、精神保健福祉法改正で保護者制度の廃止となっている。家族等の負担を減らすためだ。にもかかわらず、今回の判決により介護を担う家族においては、損害賠償を担うような事件及び事故等が発生した場合のリスクをも背負うことにつながってしまう。つまりは介護を担った者だけが不利益を被る可能性があるということ。こうなってしまうと家族介護者は、常にリスクとストレスに晒されながらの生活を余儀なくされる。

そこで上記②の議論となっている。また予防の観点も必要だから①の議論も同時になされている。

2点とも大切なことだと思うが、もっと大切な、一番基本的なことが抜け落ちてはいないだろうか。それは認知症当事者(以下、本人)の想いだ。本人はどうしたいのか。

もちろん誰もが加害者となるようなことは望んでいない。ただもし、万が一、事件や事故等の加害者になってしまったとき、 損害賠償についてどうしたいのか。家族に責任が及ばないように自らの資産等で解決するようお願いしておくのか。それとも「何かあった場合は宜しく頼む」のか。色々と聞いておかなければならない。

優しさが故に本人と認知症について語り合うことは辛いかもしれない。本人が傷つくのではないか、落ち込むのではないか、周りの人たちに知られたくない、等々があるだろう。でも、実は自らが認知症だということは本人が一番よく理解しているのも事実だ。

それであるならば、そろそろ認知症について、将来について、向き合い語り合うときなのではないだろうか。本人はどうしたいのかを。

周りが①や②の議論をするときも、本人に参加していただくような場が欲しい。そして、その場で本人の想いを聞きながら議論して欲しい。誰のための議論なのか、一番不安や恐怖を感じている人は誰か。そこを大切にして欲しいと感じ、ブログの更新に至った次第。


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65歳の壁 [感じたこと]

若年性認知症とは18歳~64歳までに発症した認知症の総称であり、65歳~発症した人は[若年性]が付かない。同じ認知症なのにだ。もちろん、本人や家族が抱える課題や社会の認識等に大きな違いはあるが、こと本人の認知症に関してのみ言えば、同じなのだ。

それを基盤に考えてみたい。

平成23年4月15日付で厚労省より出された通知は当ブログでも紹介しているところだ。
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今までのことを振り返ってみると、通知が出されたことは確かに一歩前進だ。ただ、この「役に立つことで謝礼が欲しい」「自らの存在意義を確かめるために謝礼が欲しい」はたまた「孫にオモチャを買ってあげたいからお小遣いが欲しい」等といった本人の想いや欲求は、年齢によって変わるのだろうか?

形は違えど”はたらく”ことは生活の一環であることは言うまでもないが、それが「生きがい」「やりがい」「充実」「満足」「幸福」などと密接に関係している。

そう考えるならば、たとえ40歳代であっても70歳代であっても想いは変わらないはずだ。実際にDAYS BLG! に参加しているメンバーさんは年齢は違えど、皆同じ想いを持っている。

それを年齢で区切るのはいかがのものだろう。

例えば極端に言うと、明日誕生日を迎える64歳の人がいる。その人は、今日まで”はたらく”ことで謝礼を受け取っていた。それが明日の誕生日を迎えることで、同じ”はたらく”ことでも謝礼を受け取れなくなる。昨日と今日とで何が違うのか?

【生涯現役】という言葉がある。皆同じことを想っているのではないだろうか。それは認知症であっても、そうでなくても【生涯現役】という言葉の前には同じはず。

年齢ではないはずだ。この矛盾を問うために、2013年2月8日(金)厚労省へ行く。皆さんの応援よろしく。


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反社会的行動?? [感じたこと]

久し振り過ぎるブログの更新。最近は色々と忙しく・・・、なんて当たり前の言い訳。今回、更新するキッカケを頂いたことが3点あった。

①ある方から相談を受けたこと「前頭側頭型認知症について」反社会的行動がピックアップされているが、私なりに最近感じていることを発信していない。

②小田原方面の方から「ブログを見ていて、是非、今度お話を聞きたい」という連絡があったこと。

③あるブログの読者より「ブログを読んで、自分は間違っていなかったんだ!と勇気付けられた」というエピソードを聞いたこと。 

特に②③のように嬉しいことを言われると、私は舞い上がるタイプだと改めて気付いた。豚もおだてりゃ木に登る~♪と同じである。

そこで今回はタイトルにもあり、また①にもつながる前頭側頭型認知症の人に対してよく言われている『反社会的行動』について、私の最近感じていることを発信していきたい。

そもそも反社会的とは、社会の規範に反することである。

では、よく言われている前頭側頭型認知症の人が“万引き”をすることはどうか。“万引き”は悪いことと自らが理解をしている上で、商品等を盗む行為 である。一部の前頭側頭型認知症の人がする、それは当てはまるのだろうか?

私が思うに、前頭側頭型認知症の人は注意力が一点ずば抜けるタイミングがある。それは強迫観念の「わかっちゃいるけどやめられない」とは違い、「好きなこと(もの)に対して、周りが見えなくなる」ほどの注意力。もちろん、これは全員に当てはまらないことは周知の事実。 

例えば、大福が大好きで食べたいと思いスーパーへ行く。大福のコーナーに立ち、「食べるという集中力が高まったとき」食べてしまったり、ドライブが大好きで出掛けたいと思うと「運転に関する集中力が高まったとき」運転してしまうこともある。

でも、その集中力が高まった後は、全体的な集中力が低下することで、集中力が平均化してバランスを取っているようにも思える。その集中力が低下したときの状態は記憶の蓋が障害され、 反動から来る疲労とストレスが入り混じった状態になっている。

では、「認知症の人は注意力が低下する」ということと反対なのではないだろうかと言う人もいるだろう。でも、それはアルツハイマー型認知症の一部に見られる症状だけを、全ての認知症の人に当てはめてはいないだろうか。つまり、認知症というカテゴリーに全ての人を入れてしまっているのだ。

しかも全てのアルツハイマー型認知症の人が集中力が低下するわけでもない。色々な環境因子や元々の性格等によっても変わるだろう。嫌なことは続かない、これは私たちでも同じ。当たり前。

話を戻して、この集中力が高まった結果が反社会的な行動と呼べるのであろうか。集中力が高まるキッカケ、つまりは「好きなこと」に取り組んで頂けたら、もの凄い力を発揮されるだろうし、それはもう反社会的行動からかけ離れたものであろう。

そもそも反社会的行動ではないのだから。


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愚痴。 [感じたこと]

今度は2ヶ月ぶりのブログ更新。NPO町田市つながりの開が次世代型デイサービス「DAYS BLG ! 」をオープンして、色々な書類が山積みになり、課題も山積みになり、それらを全て乗り越えていくうちに様々な人間関係も見えてきた。良くも悪くも。

今まで見えてこなかった部分(人間の本質のようなドロッとした生臭いヤツ)が見えてきたという訳だ。

私たち支援者は
①本人の想いや希望をどうすれば実現できるのか
②その想いや希望をどう汲み取ることができるのか
③日常生活とどう結びついていき、効果はどれくらい見込まれるのか
④力を最大限引き出せている、もしくは環境を整えることができているのか
⑤全ての事に対して目的や目標が設定されているのか
⑥支援者の自己満足に陥っていないだろうか
⑦接し方や話しかけ方は間違っていないだろうか
⑧家族の介護負担軽減とは何だろうか
等々、挙げればキリがないが、いつも考えていることだ。

それくらい純粋に真っ直ぐ考えているのにもかかわらず、大抵ドロッとした横やりが入ることになる。誰も口にしたことのない話や驚くほどの内容が殆どだ。噂をされるのは注目されていることとして捉えることができる。けれども噂はあくまでも噂。そして尾鰭が付いて「あることないこと」から「ないことないこと」へと変貌を遂げる。それはウルトラマンのように大きくなって。

自分のことは二の次に、相手のことを常に考えて今までやってきたつもり。けれども自分の悪口だけならまだしも周りの人や家族のことにまで及ぶというのは、些か大人げない。しかも間接的にだ。。。

派閥争い?利権奪取?そんなくだらないことはどうでも良い。私たちは純粋に認知症という生活を送る上での不便さを感じている人たちと共に、どうすれば…と考えて実行することだけに力を注いでいきたい。くだらないドロッとした人たちは間違いなく足枷になっている。

言うのは簡単。批判するのはもっと簡単。 憶測でモノを言うのは野次馬。

こんな場所で愚痴を言っていても仕方がない。ストレスがだいぶ溜まっているのかな、自浄して、もっともっと学ばなければ。明日からまた気持ちを入れ替えて頑張ろう!


タグ:愚痴
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新年あけましておめでとうございます! [感じたこと]

ブログを更新するのは、1ヶ月ぶりくらいだろうか。この期間、法人の設立や新規事業のことを考え、それらは最近Facebookを通じて報告してしまっている。是非、興味のある人はFacebookで友達申請をしてみて欲しい。

ところで、認知症やケア、福祉等に関する世間一般の認識に最近改めて考えるようになった。私たちの常識と、世間が感じている常識に温度差があるのだ。

①認知症になると何もわからなくなる。

②認知症になるのは家族の責任。

③福祉や介護に就いている人は、儲けるということが罰当たりだ。

④誰でもできる仕事なのだから、薄給は当たり前。誰でもできる仕事で高給ならば、職安は必要ない。ネットカフェ難民もいなくなるだろう。

⑤福祉、介護職の人と結婚するのは絶対に嫌。

挙げるとキリがない。でも、世間一般の意見なのだ。私の中ではこれらの意見に対する明確な答えはあるのだが、敢えてここでは書かない。それよりも、「こんな意見があった」「こんな話もきいたことがある」というような、もっともっと色々な意見を聞いてみたいと思った。意見を聞かないことには、世間との温度差を埋める手がかりもないからだ。

是非、色々な意見を頂戴したい。皆さんご協力を!

少し話が逸れるが、先日、ケアマネの資格更新手続きの案内が郵送されてきた。だいぶ不親切。なぜ不親切に感じたのか?

恐らく、実務に就いている人は更新に必要な研修を受けているのだろうが、ケアマネ実務に就いていない人は研修のことを知らされていない。そこで、その案内には「有効期限内に更新に必要な研修を受け、更新申請書と研修修了書を一緒に送付してください」の一文。

有効期限:平成24年4月9日。・・・WAO!!

「尚、有効期限内に手続きをされない場合は、再度[介護支援専門員実務研修]を受講する必要があります」と追い打ちのような脅迫文が。

慌てて、該当研修を調べてみると、「今年度内の研修申し込み受付は終了しました」と・・・。

それでも諦めずによ~く調べてみると「追加募集のお知らせ」!!

早速申込みをしてみたのだが、対応がTHE・行政。あくまでも申請方式。なんとか研修を今月末から2月末までの指定期間に受け、有効期限には間に合いそうだ。

この研修は有効期限1年前から受けられるものらしく、私のように実務に就いていないケアマネの方は、早々に研修のことを調べ始めた方が良さそうだ。

少しではなく、だいぶ話が逸れたが、世間一般の人が感じている福祉・介護の意見、イメージを聞かせて欲しい。


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ニンチショウ? [感じたこと]

久し振りのブログ更新。最近は何だか忙しく、パソコンには触るが自分のブログもチェック出来ない程、色々なことが身の周りで起きている。

自分自身のこともあるが、ちょっと町田でじっくりと腰を据え、地域に根を張り活動していこうと思う。そんな中だけれど、認知症について改めて考えてみたい。 

以前より認知症のことを「ニンチ」と略している人がいる。そもそも、心理学の中で認知という言葉は、 ある対象を知覚した上でそれが何かということを判断したり解釈したりする過程のことを指す。けれども「ニンチ」と略している人は、認知の意味を知って使っている訳ではない。多くは、職場の先輩が使っていたからとか、楽だからとかの理由だろう。

何故、カタカナで「ニンチ」と書いているか。略している人は話し言葉で「ニンチ」と略しているからだ。実際にあるケア専門職同士の会話。

「〇〇さん、最近ニンチ進んだよね~。だってさ、入って(入居)きた時と比べて、もう完全に顔がニンチの顔だもんね~。あそこまで進んじゃうと、もう何もわからなくなっているんじゃない?もう、人生終わっているよね~」という内容。

完全に言葉の暴力、虐待、差別である。

ここから歯止めが利かなくなると、更に身体的な虐待へと発展することがある。恐ろしい話だが、このケア専門職たちは悪気もなく至って普段の会話となってしまっている。気付いていないのだ。性質が悪い。

痴呆症から認知症へと呼称が変更された背景には、差別化がないようにということも含まれている。それでも至る所で「ニンチ」と呼ばれている現実がある。根本を変えないと、いくら呼称を変えても同じだ。

それと同じく「アルツ」と略している人もいる。これは元々、アルツハイマー型認知症のこと。これも会話では「〇〇さんってどんな疾患だったけ?アルツだっけ?」・・・もうここまで来ると、溜息しか出てこない。「ニンチ」「アルツ」と呼んでいる人ほど認知症の知識を知っているつもりになっている。

知識は武器でもあるが、知識だけでは専門職とは言えない。知識だけの認知症ケア専門士もいるというのだから呆れてしまう。

これを読んで気付いたアナタ、明日から略すことをまず止めてみよう。認知症を“抱える”もね。 


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ケアマネって・・・ [感じたこと]

これからケアマネについて感じたことを書いていく。予め断っておくが、全てのケアマネに対して言っている訳ではなく、一部のケアマネに対して言いたいことがある。それは・・・、

一言で表すなら「おばちゃんケアマネ(注)」が多いということ。ケアマネという職種は誰でもなれるのかい?

ケアマネ試験の合格率は20%と聞く。私自身も4~5年前に取得したのだが(アレ?更新は??)、恐らく同じような合格率だったと思う。このケアマネ受験資格が曲者だ。

まず、ヘルパー2級の所持者でも5年の実務経験があれば受験できる。また介護福祉士も同様の実務経験があれば受験できる。つまりは給与アップやキャリアアップを目指して、以下のような流れが大半を占めている。

ヘルパー2級取得→(実務経験3年)→介護福祉士国家資格登録→(実務経験2年、もしくは5年(ヘルパーと合わせて5年、もしくは単独で5年))→介護支援専門員

もちろん、それぞれ受験を要する訳なのだが、専門教育といった分野が欠けていることが問題だと思う。だから、おばちゃんケアマネによっては、「私、認知症苦手なのよね~。アナタ代わってくれる?」なんていうことを平気で言っちゃったりする。

もしくは認知症の人を支援できずにどうして良いかわからないケアマネもいる。

もちろん、自己研磨をし専門性を高める人も多い。ただ、一部のケアマネが質を落とすことで全体のイメージや質が落ちていくのだ。 

例えばサービス担当者会議でも、終始、井戸端会議や雑談で終わることが多い。もちろん、認知症の本人抜きで会議を進めて、更には何を目的としてチームで共有するのか、明確にせぬまま会議を終わらせようとする。自宅のお風呂に入れないという課題があるにもかかわらず。

しかも、しっかりとお茶だけは飲んでいく・・・。

会議が終わった頃に、初めて認知症の本人に「お体の具合はいかがですか~?」なんて、つくり笑顔のつくり優しさオーラを出して声を掛けている。気持ち悪い。

そして居宅サービス計画の内容はAさん、Bさんと同じ。電話で問い合わせると、リーサルウェポンとして出てくる言葉は「私、現場では一般のデイだったから」と意味不明な言い訳。

厚労省が打ち出した今後の方向性では、介護福祉士の受験資格が[実務経験3年]+[実務者研修450時間]になるようだが、専門性を叩き込むつもりなのだろうか?

それならいっその事「認知症支援専門員」なるものを創設してみたらどうだろう?でも、全体のことを考えるとそう上手い方法ではない。

それならば、実績作りのための研修は止めて、[実務者研修450時間]や[資格更新研修]の内容を充実させ、“人を育てる”ことに特化していった方が良いだろう。何故なら、ケアマネはある意味、他人の人生を変える力を持つ訳なのだから。

これを読んだ専門職ケアマネの方は気分を害したことだろう。ただ、おばちゃんケアマネに限って言えばドキッとしたか、もしくは知らんぷりを決め込むはず。ならば、ドキッとした人はこれから自己研磨していって欲しい。

(注)おばちゃんケアマネとは、ここでは男性・女性関係なく表している。 


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外出時の「お手てつないで」 [感じたこと]

デイサービスによくある風景。それは公園などを散歩している場面で、チノパンにポロシャツ姿のスタッフと本人が手をつないで歩いている。

いかにもスタッフとわかる揃いの服装(チノパン&ポロシャツ)で、皆神経を尖らせながら手をつないでいる。もしくは本人と一緒に車いすを押している。

服装に関しては、「何で皆同じ格好なのだろう?ユニフォーム?いかにも福祉色だなぁ・・・」と感じる部分が多いが、それはひとまず置いておく。

手をつないで歩く。

この行為が自立支援のためとは思えない。中には一人で歩くことに不安が強く、本人が希望されることもあるだろう。それでも、大方は“安全のために”とスタッフが勝手に判断して行っている行為なのではないだろうか?

手をつないで歩く。

いつも手をつないで歩いていると、いざ一人で歩かなくてはならない場面になったとき、果たして歩くことができるのだろうか?

手をつないで歩く。

高齢者だけではなく、若年と呼ばれる比較的若い世代(40~70代前半←あえて64歳としなかった)であっても、必ず手をつなぐ。何でだろう?

もっと行き過ぎた感が否めないのが、脇を支える&腕を組む。

こうなると本人が犯罪者のように見えてくる。しかも本人の表情は眉間にしわが寄っている。明らかに嫌なのだ。本人が嫌だと感じているのに、手をつなぐ。脇を支える。腕を組む。もう「何が何でも転ばせない!」とスタッフの強い意気込みさえ感じてしまう。

何故、認知症の人がデイサービスの散歩を一人で歩いては危険なのか?確かに注意力が低下して石に躓く、段差に躓くこともある。その場合はスタッフが危険を察知して、その都度、本人に伝えることをすれば良いのではないだろうか?もちろん、自ら危険を察知できる人も多い。

認知症の人全員に同じ対応をすること自体が???である。

ではスタッフ&管理者にわざと「何故、そんな危険な思いをしてまで散歩をするの?」と意地悪く聞いてみると、大抵「散歩は体に良いって聞きます。」「他の事業所もしているし・・・」と回答される。

散歩の目的がない。

意義を知らない。

ダメだこりゃ。

散歩くらい一人で自由気ままにしたい!という私の想いは、認知症になりデイサービスを利用すると叶わないのであろうか?


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介護ハウス!? [感じたこと]

友人がシェアしていた、ある研修会の写真。これを見て欲しい。

HOUSE.JPG

私はこの写真を見て愕然とした。現在の座敷牢ではないか!姿かたちはプレハブ小屋だが・・・。

現在でも自宅の庭に設置して、認知症の本人を押し込め「在宅生活」、「同居」と言っている人たちがいることに恐怖さえ感じる。何故、恐怖を感じるかと言うと、悪気がないからだ。いや、業者にはあるかもしれない。

そもそも、「介護用ハウス」というネーミング自体が間違っているのではないか?犬小屋ともとれるニュアンスを感じずにはいられない。

ちなみに「介護用ハウス」をネットで検索してみると、何社もヒットした!上記の写真よりもまだ“マシ”なのだが、明らかに現在の座敷牢を呈している。それも、玄関から入るつくり(当たり前か)だから、外側からカギを掛けられるのである。  もちろん、健全な会社もヒットしてしまうが・・・。

震災後の仮設住宅として、ケアしやすいよう設計された仮設支援(介護)用住宅(ハウス)なら理解できる。でもこれは常設なのだ。

業者は明るく爽やかに宣伝しているが、私は違和感イッパイで、悲しくもなってきた。

家族としても様々な事情があるだろう。「本人のためにと思って・・・」と言うのかもしれない。また「迷った挙句に。。。」と言うのかもしれない。そして罪悪感を拭う「結構快適みたいですよ」の一言。でも、これは仕方がない。悪気もある。

こういう業者は家族が精神的に弱っているところに狙い撃ちする。

問題なのは『本人はどう思っているのか?本人に了承を得たのか?本人が希望したのか?』ということなのだが、精神的に弱った家族を業者が丸め込み、周りで勝手に決めて進めた話なのではないだろうか?

そこに第三者でもある支援者が入れば、変わるのだろうが・・・。

先人たちの苦労や、本人が勇気を持って想いを打ち明けてくれたことで、未熟だがケアが確立されつつある現在。でもこれは、時代の逆行と取れるものだ。

何だか怒りを通り越して悲しくてしょうがない。皆さんはどう思う?


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