デイサービスの外出について [介護・福祉の疑問]

①「デイサービスの儲け主義に利用されている。ここまで税金でやるべきではない。予算の無駄。」

②「デイサービスはデイの申請をしたデイルーム内で1日を過ごすべき。そもそも何故、デイサービスに外出が必要なの?ケアマネさんはデイサービスに行くことが外出だと言っていたけど??」 

世間一般の人たちからこんな意見を頂いた。これが世間一般の人たちが抱いているデイサービスのイメージであると共に、本質を知って頂く努力を怠っている私たち専門職への挑戦状だ。

まず①の意見に対しては、一部の儲け第一主義としているデイサービスの印象が強いのだろうか、デイサービス全部が嫌われている。まぁ、それも仕方がないのかもしれない。なぜなら、社会全体で支える仕組みの介護保険制度だが、保険料と称して強制徴収されているのだから。

俺は(私は)まだ介護など関係ない、そう思っている人たちは、この感情を抱きやすいと思う。だからこそ、デイサービスを始めとする介護福祉サービスの必要性と本質を一般の人たちに知って頂く努力をしなければ、社会の一部が支える制度となってしまう。

もっと自分事として捉えてもらうためにも、身近なことだと知ってもらうためにも、 私たちは広く世間にアピールし、周知と理解を図れるよう、努力しなければならない。この業界の中だけで一生懸命に吠えていても、井の中の蛙だ。

次に②の意見に対しては、少し介護保険制度を知っている人からだ。これは、おかしなことに同じ介護保険制度にも関わらず、都道府県によって解釈が違うことから生じているのだ。A県は「外出は心身機能の維持・回復、または気分転換にもつながることから、デイサービス中における外出は可とする」、B県は「デイサービスとは申請時のデイルームにおいて、心身機能の維持・回復に努めることであり、デイサービス中の外出は介護サービスの対象外である」、C県は「外出は家族の役割であり、介護サービスの範疇ではない」など多様だ。

だからなのか、ケアマネにも解釈の違いが出ている。「デイサービスに行くことが外出」これは嘘だ。なぜなら、自宅(箱)→車(箱)→デイサービスセンター(箱)と、箱から箱の移動だけだからである。しかも、デイサービスは座っている時間がとにかく長い。時間全体の8~9割は座っている。歩くのは移動とリハビリの時間だけ。これじゃぁ、①の意見を言われても仕方がない。

そこで、①②両方の意見に対して、今後のデイサービスが目指すべき在るべき姿を少しお伝えしたいと思う。

image.jpg

上記図の「想い」・・・人は、何らかの想いを持っている。例えば、社会とつながっていたい、働きたい、友人と〇〇したい、恋愛したい等。

「場」・・・デイサービスセンター、集会所等のこと。ここに人は想いを持って集まる。現在はこの場に集まり、そして解散するのみ。

「地域」・・・町、商店街、町内会等のこと。ここに人が持っている想いを実現できるモノが沢山ある。これからは地域とつながっていくことが求められていく。

つまり、現在はデイサービスに行くことが目的となっているが、今後はデイサービスに行くことは手段であり、そこの場から地域とつながり、想いを実現していくことが目的となるのだ。

そして、その想いを実現することがQOLを高めることにもつながり、生活機能の維持・回復にもつなげられるよう、生活場面をしっかりとアセスメントすることで、専門性も確立されるのではないだろうか。その専門性を世間一般の人たちに伝えることができるようになれば、①②のような意見も少なくなるものと思われる。

専門性のインプット、それを世間一般に知ってもらうためのアウトプット(易しく理解しやすく伝えることが重要)。これが大切であり、やらなければならないことだ。


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認知症であっても・・・ [介護・福祉の疑問]

「前田さんは、自分が認知症になったとしても、それでも長生きしたいと思いますか?」という質問を頂いた。何とも色々と考えさせられる質問内容である。

でも答えはNO。

私自身は太く短い人生を送りたいと願っている。認知症であっても、そうでなくても。そう考えると、人それぞれなのではないかと思う。

では、いつが私にとっての寿命を全うする時期、すなわちゴールなのか。短いと言っても、「ここまでは!」という年齢がある。それは、子どもが結婚し孫の顔を見るまでと思っている。「オイオイ、そりゃ長寿だよ!」という声も聞こえてきそうだが・・・。それぞれ感じる、考える、受け止める年齢は違うのと同様に、だからこそ人それぞれなのではないだろうか。

それでも例えば私が40歳でアルツハイマー型認知症と診断されたら・・・?

その時、子どもはまだ10歳。少なくともあと15年は認知症と共に生きなければならない。そう考えると、長寿を願うというより「生きたい!生き抜かなければ!」と願うだろう。

その場合、 抗認知症薬を服用しながら生活を送っていくことになるのだが、現在(あくまでも一例)、認知症になるとこんな社会が待っていることもある。

会社には勇気を持って自分が認知症だということを説明するが、仕事でのミスが目立ち始め、部署の配置転換を繰り返し、通勤も不安を抱え、ついには居場所がなくなる。そして退職。

家にいる時間が長くなり、子どもから「お父さん、仕事行かないの?」と質問され、家を出るも近所の人の視線が痛く突き刺さる。「このまま自分の人生が終わってしまう・・・。これではダメだ!」と奮起し、デイサービスを利用するも周りは高齢者ばかり。更に気持ちが沈み込む。

「生きたい!生き抜かなければ!」という気持ちから「何故、自分が・・・。」と悔しい気持ちで涙が流れる。それでも病状は容赦なく進み、自分の気持ちを言葉に出して伝えることが難しくなってくる。

すると自分の気持ちや想いとは裏腹に、[認知症/利用者/患者]の前田さんとしてスタッフから見られ、何もできない人として扱われてしまう。そこに苛立ち、「馬鹿野郎!ふざけんな!」という言葉だけが偶々出て、スタッフを突き飛ばし、部屋から出て家に帰ろうとする。するとスタッフからは[暴言/暴力/徘徊]というシールを更に貼り付けられてしまう。

もちろんこれは一例だが、こんな社会であれば、お先真っ暗だろう。でもここを変えていかなければ、明るい未来は遠いのだ。まずは、①会社 ②上司 ③同僚 ここの理解を広げていくためには、専門職向けのセミナーやフォーラムだけではなく、多くの一般企業を巻き込んでいく必要があるだろう。

そして、④地域 ⑤学校 ここにも理解を広げていく必要がある。それを担っているのが地域包括支援センターと呼ばれる、地域の頼れる専門職の詰所だ。ただ動いていない、どう動けばよいのか、高齢者であれば対応できるが・・・、と二の足を踏んでいる専門職も多い。「アンタ等が動かないで誰が動く!?」と言いたい。

また、⑥認知症本人のサポート ⑦家族のサポート ⑧専門職のレベルアップ これらも非常に大切である。課題は多いように見えるが、実際に動き始めないと社会は変わらない。変えるためには動かなければならない。

いつまでも認知症を他人ごととして考えるのではなく、自分ごととして考えなければならない。認知症でも変わらぬ自分であり続けられるために。

【NPO町田市つながりの開】はそんな活動をしている(いく)団体だ。


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介護・福祉職にオシャレは必要か? [介護・福祉の疑問]

一般の人(この業界外の人)から「身だしなみとオシャレは別。介護や福祉といってもノーメイクの女性や、私服だからといって勘違いしている人が多いのではないか?」というご意見を頂いた。

ごもっとも。

自分が歳をとったからなのか、いや違う。社会的な常識から考えてもオカシイと思う人がいる。ただノーメイクに関しては、女性ならではの考えや、皮膚疾患等も考えられるかもしれないので特に意見はない。

この仕事は“動きやすい”服装が求められているのだが、ある程度の常識と時代にあったニーズは求められるだろう。それでは、ある程度の常識とはどのようなものか。

①相手に不快感を与えないもの ②清潔感があり、好印象であるもの ③就業中であり、プライベートではない

こんな感じだろうか。会社員の人はスーツが勝負服であり、戦闘服でもある。私服で勤務している場合もあるが、対外的な時はスーツが基本だろう。

では私たち介護職の場合はどうか。常に相手がいるはず。でも、スーツだと動きにくい。

そこで登場するのがチノパンやジーンズ、シャツになってくるのだが、勘違いしている人はズタボロのジーンズを履いてみたり、チノパンを腰で履いてみたり、ダメージシャツを着てみたり。

まぁ、若い人に多いと言えばそれまでなのだが、とあるデイサービスのスタッフ(40代の女性)はホットパンツにブーツを履いてキャミソール姿で送迎に出たところ、 家族からクレームの電話があったという。その格好で仕事をしようと思っていたスタッフもそうだが、それを注意しない上司も問題だ。 

それでは時代にあったニーズとは、どのようなものなのか。

①相手の時代背景に沿った社会的常識範囲のもの ②現在求められているもの ③ある程度の個性を生かしたオシャレ

こんな感じだろうか。もし私の年代がサービス利用をする立場であれば、スタッフのホットパンツ姿は許容されるかもしれない(されないかもしれないが・・・)。でも相手は80代等。確実に許容されないことは明白だろう。

また、よくある格好としてジャージがある。これは一昔前の、いかにも福祉っていうイメージであり、現在の考え方からはほど遠い。ジャージはそもそも運動するときに着るもので、まさに「オムツ交換レース」が全盛だった時代のニーズなのだ。更には何かの部活動のようにお揃いジャージで気味が悪い。

これもまたよくある格好なのだが、お揃いのチノパンにお揃いのポロシャツ。まったくもって個性が奪われている。「生活を大切に」とか「社会参加」とか「地域の一員として」とか言っている割には、明らかな異空間がそこにはある。それが法人としての制服なのかもしれないが、地域として考えたときも制服姿なのだろうか?地域に同じ服を着ている人が多くいたらどうだろう?

余談だが、法人によっては衣服代(制服代)と題した手当をスタッフに支払っているところもあれば、逆にこれらのことを口実に、勤務は私服を推奨しつつ、私服だから衣服代などの手当を支払わない法人もあり、様々だ。

話を元に戻して、これらのことを踏まえたうえで、仕事の時に着る私服を選んで頂きたい。オシャレは介護・福祉職であっても必要であり、オシャレをすることで気持ちが高揚したり、明るくなるだろう。それは相手にも伝わることであり大切な部分でもある。 

ただ忘れてはならないこと、それは私たちの常識は世間一般からすると非常識なことが多いのだ。それを常日頃から肝に銘じつつ仕事をしていきたい。


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認知症の対策 [介護・福祉の疑問]

「認知症の他にも心の病や貧困など大変なことが山積みです。そんな中、認知症の対策ばかり立てているのはいかがなものでしょうか?」という意見があった。

この意見に対して、 行政の縮図を見た感じがした。

まず何故、認知症や心の病、貧困など分けて考えてしまうのか。認知症は高齢者福祉局?心の病は保健福祉局?貧困は生活援護局?

それでは、うつ病だった人が認知症になり、生活に困窮してきた場合はどうするのか?3つの部署が協力を図りながら対応するなんてことは想像しにくい。

そこには“THE・たらい回し”が待っているような気がする。

では何故、認知症の対策ばかり立てているのか。それは介護保険制度を牛耳る部局が今一番力があるからだ。何といっても高齢社会。精神疾患の人や貧困の人よりも、圧倒的に高齢者が多い昨今、担当部署は力もあるが予算もある。

そこでだ。以前からお伝えしているかもしれないが、 「生活のし難さ、生き難さ」という障害の視点から考えてみるとどうだろうか。

個人差はあるかもしれないが、広義の障害として捉えたとき、私たち全ての人が範疇なのではないだろうか。例えばアレルギー性鼻炎とか、朝起きられない、肩こり、乱視や老眼なども「生活のし難さ、生き難さ」 につながる。

もちろん心の病や貧困も「生活のし難さ、生き難さ」に含まれる。

その障害という視点から考えるとき、私たち皆の問題でもあり、特別なことではなくなる。一人の人間をバッサリと区切る現行の[知的][身体][精神]と分かれている障害区分自体が不自然だということに気付く。

もっとシンプルに「生活障害」という考えが広がるよう、活動していきたい。

行政の批判ばかりなので、この辺でもう一つの考えを。

実は認知症を入り口として考えると、心の病や貧困にもつながってくる。認知症になると本人も家族も不安になり、心の病にかかり易い。

また、働いていた場合は退職せざるを得ない状況になり、収入が大幅に減るだろう。そして介護保険サービスを利用するようになると、収入≦支出となり貧困が迫ってくる。

このような考えもあり、認知症の対策に力を入れているのだ。 


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笑顔があれば・・・ [介護・福祉の疑問]

こんな意見があった。「笑顔があれば言葉がなくとも伝わる」「とにかく笑顔を絶やさないために・・・」「怒っていた人も私の笑顔を見たら落ち着かれた」・・・等々。

私が思ったこと、それは「気持ち悪い」の一言。 

確かに笑顔は大切ではある。私も一時期はそうだったかもしれない。そんなとき、お婆ちゃんが私に向かって「何アンタヘラヘラ笑っているんだよ!私の気も知らないで。。。」と言い私を怒った。

相手の気持ちを知って、推し測って、[楽しいとき][嬉しいとき][幸せなとき]に一緒に笑えばいいのではないだろうか。それを年がら年中、笑顔を絶やさないようにと頑張っている専門職がいる。

本人からしてみると、「気味悪い」「私のこと馬鹿にしている」「笑いものにされている」と捉えられているかもしれない。

そもそも、根本的に喜・怒・哀・楽はどこへ?最初の怒っている人の、その怒っている原因はどこへ?人間らしく、感情を表現して何がいけないの?

認知症や障害福祉には、〝その人らしく〟というオールマイティな言葉がある。良くも悪くもだ。その人らしくを語る前に、人間らしくをしっかり理解しないといけない。 

また笑顔があっても、言葉がなければ伝わらないときもある。 例えば、アナタが認知症の人でスタッフの顔を忘れている。そんなとき、スタッフは笑顔で伝えようとニコニコしながらアナタに近づいてくる。

①何だ?この人。ちょっと怖いし、気味が悪い。

②良い人だ~!

アナタが抱く感情はどちらだろう?大抵①ではないだろうか。この場面は非言語コミュニケーションとは違う。ところで、この笑顔で近づいてくるスタッフが、例えば「スミマセン、私、〇〇と言いまして、新しく此方に赴任してきた者です。ご挨拶をと思いまして・・・」なんて言葉が付いたらどうだろう?

また世間一般の人もこの業界の人に対して誤ったイメージを持っている。それは、「福祉の人は優しい」「人が良さそう」「断らない」などなど。

常に笑顔を絶やさず、頑張っている人が多いからか?

対人援助で、広く深い知識と技術が必要であり、自己研鑽が常に必要なのである。人に優しく自分に厳しく、努力を惜しまない人が多いのである。

以前にも書いたが、全体の1/3は頑張っている人だ。その人たちは恐らく、どこの一流企業や世界に行っても通用する人たちでもある。つまりは一般社会の上位の人たちと何ら変わらない。

介護・福祉の人たち、一般社会の人たち、お互いを知ることで生まれる力が社会を変えていく。これからも〝つなぎ役”として少し担っていきたい。


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介護保険サービス“利用者” [介護・福祉の疑問]

「今度来る新規利用者だけど・・・」「うちの利用者は・・・」「あの地域は利用者多いから・・・」といった専門職の声をよく耳にする。悪気は無いのだろうが、職業的な口癖だ。

私が最近、皆さんにお伝えしていることがある。介護保険サービスを利用するようになった瞬間から、〇〇さんは“利用者”となってしまっていることだ。 

職業的な口癖だけに、気付いていない人が多いかもしれないが、利用者というカテゴリーの中に一人の人間を押し込めてしまい、そのカテゴリーは【利用者=護る存在】、つまり出来ないことが多い人たちと決め付けている節がある。

なぜ、カテゴリーの中に押し込めてしまうのか。

それは利用者という言葉を使うと、言い訳の理由になってしまうことが挙げられる。言い訳とは、リスクや事故が起きたときに、「利用者=社会的弱者だから何が起きても(何を起こしても)不思議ではない」=「自分のせいではない」と暗黙の、気持ちの悪い意思統一が図られているのではないだろうか。

ちょっと待って。

利用者の前に生活者であり、そもそも〇〇さんという一人の人間ということを忘れないで欲しい。生活者とは ①社会的な役割を持っている ②楽しみを持っている ③交流機会がある この3点が絡み合っている状態のことだ。そこに一人の人間として〇〇さんの個性が入ってくる。

例えば、アナタに置き換えて考えてみよう。アナタは①働いている、専業主婦、PTA、町内役員など ②趣味がある、好きな過ごし方がある、目標を持っている ③会社の同僚と会う、友達と会う、人と会う ・・・当てはまるだろう。

そんなアナタが交通事故に遭い、退院後には介護保険サービスを利用しながら生活をしていかなければならなくなった。するとスタッフから“利用者”カテゴリーに入れられてしまい、①もう働けない人、何も出来ない人 ②事業所のプログラムに合せなければならない ③事業所で他の“利用者”とスタッフのみにしか会えない  面白くない“利用者”人生のスタートになる。

私なら耐えられない。例え介護サービスを利用することになったとしても、前田流の生活がある訳だし、考えを持っているし、自分は自分で唯一無二であり、多くの利用者と一緒にされるのは嫌だ。

そして“利用者と呼ぶこと”に関して、こんな意見も頂いた。「利用者という呼び方は差別的に感じる」と当事者の〇〇さんからだ。

当事者からこんな意見が出てしまうこと自体、専門職として恥ずかしくないのだろうか?もうそろそろ、“利用者”と呼ぶのは止めにしないかい?そこのアナタ。


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介護・福祉のイメージ [介護・福祉の疑問]

「こんな待遇が悪い業界はいつか破綻する」という意見があった。

どうもこの業界イメージは“キツイ”・“キタナイ”・“給料安い”といった伝説の根強い3Kがある。またこの意見では、職員が辞めていくこと、更に職員が集まらないことも指摘している。

確かに待遇が悪いのは否めないが、その原因は2つある。

1、この業界で働いている私を含めた、人の問題。この業界のリーダー的存在の人や常に向上心を持って知識技術を吸収し学び続けている人、この人たちは全体の1/4くらいだろうか。この人たちは給料が良い。と言っても、世間と比べると安いのかもしれないが・・・。でも、誇りとやりがいを持って頑張っている。

言われたことのみを実行する人、または問題意識を少し持ってはいるが実行に移していない人、もしくは経験のみで自己流を貫き通す人、①この人たちは全体の2/4くらいだろうか。この人たちは給料が安い。当たり前のことだ。

残りの1/4の人は目標もなく、ただ何となくこの仕事に就いて、適当にしている②ダメな人

実はこの①と②の人たちのイメージが強く、しかも①と②の人が自ら3Kを訴え、見当違いの文句を言い放ち、離職率を上げていることに一役買っている人たちでもあるのだ。ただ、これは他の業界でも同様のことが言えると思う。

2、介護保険サービス事業者としては、収入源が保険給付だけなので上限が決まってしまっていることだ。年々給付が下がっていると騒いでいるが、私からすると自業自得とも言える。それは、儲け主義に走り過ぎている事業者が、自身のケアマネ事業所を利用して客を集め、必要もない事業所自身の介護サービスを満額近く利用させている。その結果、国の財政が圧迫されて「給付率を下げよう」という話になる。すると、 収入を確保するべく新たに介護サービスの必要ない客を集めて・・・と堂々巡り。

そのケアマネだが、ヘルパー上がりの人が多い。多くのヘルパーケアマネは、ケアマネになることが目標となってしまっているので、 向上心がない。今までの経験のみを自らを支える柱として考えているのだ。だから勉強しない。社会福祉や社会生活、対人援助など基礎が全くない人たちである。知識が重要ではないのだが、そんな人たちに『バイスティックの7原則』を問うても???であろう。そんな人たちに人生を預けても良いのだろうか?だからケアマネによっては“当たり外れがある”とか言われているのではないだろうか。

専門職として、自己研鑽が必要であるし、利用料を頂いているプロなのだから。もっと自覚を持って欲しいと思うのである。 

少し、一部のケアマネ批判といった話に脱線してしまったので戻そう。

1、人 2、事業所 の問題が原因により悪いイメージが定着しつつあるのだが、意見を頂いた世間一般の無知も実はあるのだ。それは“福祉”自体をネガティブに捉え、「福祉の世話にはなりたくない」と言っている人ほど多い。でも、福祉のお世話になっていない人はいない。

赤ちゃんのときはどうっだっただろうか?保育園に通っていた人は?児童手当は?学童保育は?〇〇歳まで医療費助成は?緑のおばさんは?民生委員は?・・・挙げるとキリがない。

意外と身近にある福祉。きっとアナタもお世話になったはず。 

今後の福祉は、この業界で頑張っている人と世間一般の人がお互いに知ることで、変わっていくと思う。そして、それが実現するとき、大きな力となって“誰もが安心して暮らせるまち”となり日本が変わるキッカケへとなり得る。

頑張ろう日本!頑張ろう皆!頑張ろう自分! 


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認知症と寿命 [介護・福祉の疑問]

「認知症になってまで長生きしても仕方がない」といった意見があった。つまりそれは、認知症になったら人生が終わってしまうこと、認知症に対する恐怖、認知症になりたくない気持ちがしっかりと表れている。

認知症とは死の病なのだろうか。

病状は進行する。そしていつかは寿命を迎えることになるだろう。ただ、認知症が原因で死亡することはない。では何故、認知症は忌み嫌われているのか。

HIVやガンも進行する。けれども、人生が終わってしまう程に感じることは少ないのではないだろうか。それはHIVやガンになったとしても、自らが望む生活(人生)を送ることができるからだと思う。

それはHIVやガンの人は自らの意志で、自らのことを決め、自らが望むように生活を送ることができる。つまり、HIVやガンになったとしても人生の主人公でいることができるのだ。

では認知症の場合はどうだろう。

自らの意志とは関係なく、周囲の人が勝手に決めつけ、自らが望んでいない生活を余儀なくされる。つまり、認知症になってしまったら、人生の主人公ではいられなくなる。これが人生が終わってしまうこと、恐怖、認知症にはなりたくないといった気持ちにつながっている。

それでも今後は認知症の人が高齢社会に伴って増加し、400万人を超えていくという。80歳以上では4人に一人、65歳以上では10人に一人、若年認知症(18~64歳)まで含めると誰もが認知症になる確率だ。明日は我が身とはこのこと。

しかし、現在では認知症になってしまうと前述の通り“お先真っ暗”の社会である。では、どうしたら良いのだろうか。

それは認知症になっても人生の主人公でいられるような社会を創設していかなければならない。つまり、認知症になっても自らの意志で自らのことを決められるよう、また自らが望む生活(人生)を送れるよう、今からアクションしていかなければならない。

アクションとは一つではなく、様々な方法があると思う。個人でできること、企業や団体としてできること、行政ができること、国や政府としてできること、色々と方法がある。

「認知症になると10年生きられれば良いほうだ」と言われていたが、20年~30年、40年と定説が覆されている。その長い残りの人生を充実した人生に、楽しかったと言える人生になったほうが良いのは言うまでもない。

認知症になっても趣味が続けられ、社会的役割も持ち続けることができ、家族で笑って生活ができるよう、自分としては何ができるのか今一度考えてみよう。きっとできることがあるはず!


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介護職の給与 [介護・福祉の疑問]

今回から世間で感じている「介護・福祉の疑問」に答えていきたいと思う。世間一般と私たちの世界とでは、考え方や捉え方の温度差が激しい。

例えばお金や給与に関すること。

世間一般では「介護をして給与をもらうのは罰当たり」「特養やデイサービスのレクなんて、地域の集まりでやっているのと同じ。それなのに料金が発生するのはオカシイ!」等。

どうも介護という職業が認められていない気がする。お嫁さんでも出来る、家政婦さんに毛が生えたようなもの、主婦の副業といったイメージが強い。

確かに私たち介護職や福祉職の中にも、志が低く誰でもできる仕事と思っている人が多い。いわゆるプロではない人たちなのだが、プロではないから倫理や技術を持ち合わせていない。

ただ、そこに専門性を持ち、倫理と技術を持った志が高いプロもいる。私はそういった専門職は弁護士等と一緒だと思っている。だからこそ、料金も発生するのは当たり前だし、何ならもっと高い料金でも良いのでは?とさえ考えている。

会話における技術を一部紹介すると、①パーソナルスペース ②オープン、クローズドクエスチョン ③非言語コミュニケーション ④言語コミュニケーション ⑤傾聴 ⑥声の抑揚 ⑦環境 等々を駆使して本人を知っていく。知り得た情報を他のスタッフとも共有するために、定められた記録形式に簡潔にわかりやすく記入する。また定期的かつ継続的なミーティングの開催。

どうだろう、会話一つとっても専門性が高いのは一目瞭然ではないだろうか。 しかも多くは雑談の中で知り得たい情報を得ていくのだ。技術と知識と経験の3本柱が必然となってくる。

そこに介護の技術がプラスされる。身体介護とは、1~10まで全てを行うことではなく、1~10の中でピンポイントの支援を行うことが大切なのだ。

私たちの日常生活を線で表すと1線で記入できるが、支援が必要な人は線と線の間が点線になっている部分がある。そこの点線を支援することによって、線がつながるのだ。そこの点線支援では、①何があればできるのか ②どういった支援が必要か ③環境の工夫 ④生活しづらさの原因 ⑤病気の理解 ⑥生活の導線 ⑦精神的ケア ⑧認知症 等々が挙げられる。

そして地域や社会との関わりを把握し、つなげていくかもしれない。

その人の生活を支援していく仕事、それが介護・福祉の仕事である。それは、人の支援から町づくりまで幅広いものであり、専門性が求められるものである。

会話と介護、地域や社会との関わりのみを挙げたが、他に挙げるとキリがないほど専門性が高い。だからこそ、専門性を持っていないプロでない人たちを見るとガッカリするのと同時に怒りさえ湧きあがる。

プロではない人たち、即刻退場!である。 


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新年あけましておめでとうございます! [感じたこと]

ブログを更新するのは、1ヶ月ぶりくらいだろうか。この期間、法人の設立や新規事業のことを考え、それらは最近Facebookを通じて報告してしまっている。是非、興味のある人はFacebookで友達申請をしてみて欲しい。

ところで、認知症やケア、福祉等に関する世間一般の認識に最近改めて考えるようになった。私たちの常識と、世間が感じている常識に温度差があるのだ。

①認知症になると何もわからなくなる。

②認知症になるのは家族の責任。

③福祉や介護に就いている人は、儲けるということが罰当たりだ。

④誰でもできる仕事なのだから、薄給は当たり前。誰でもできる仕事で高給ならば、職安は必要ない。ネットカフェ難民もいなくなるだろう。

⑤福祉、介護職の人と結婚するのは絶対に嫌。

挙げるとキリがない。でも、世間一般の意見なのだ。私の中ではこれらの意見に対する明確な答えはあるのだが、敢えてここでは書かない。それよりも、「こんな意見があった」「こんな話もきいたことがある」というような、もっともっと色々な意見を聞いてみたいと思った。意見を聞かないことには、世間との温度差を埋める手がかりもないからだ。

是非、色々な意見を頂戴したい。皆さんご協力を!

少し話が逸れるが、先日、ケアマネの資格更新手続きの案内が郵送されてきた。だいぶ不親切。なぜ不親切に感じたのか?

恐らく、実務に就いている人は更新に必要な研修を受けているのだろうが、ケアマネ実務に就いていない人は研修のことを知らされていない。そこで、その案内には「有効期限内に更新に必要な研修を受け、更新申請書と研修修了書を一緒に送付してください」の一文。

有効期限:平成24年4月9日。・・・WAO!!

「尚、有効期限内に手続きをされない場合は、再度[介護支援専門員実務研修]を受講する必要があります」と追い打ちのような脅迫文が。

慌てて、該当研修を調べてみると、「今年度内の研修申し込み受付は終了しました」と・・・。

それでも諦めずによ~く調べてみると「追加募集のお知らせ」!!

早速申込みをしてみたのだが、対応がTHE・行政。あくまでも申請方式。なんとか研修を今月末から2月末までの指定期間に受け、有効期限には間に合いそうだ。

この研修は有効期限1年前から受けられるものらしく、私のように実務に就いていないケアマネの方は、早々に研修のことを調べ始めた方が良さそうだ。

少しではなく、だいぶ話が逸れたが、世間一般の人が感じている福祉・介護の意見、イメージを聞かせて欲しい。


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