医療と介護のケア(cure)の異質? [感じたこと]

ある人が肺炎で入院となった。

救急車で搬送されたのだが、搬送までに時間がかかった。何故か?

それは認知症があったからだ。病院受付の人との電話やり取りからしても「認知症ありますか?」と第一声。どこかの「冷やし中華ありますか?」と一緒のように聞こえてしまう。たまたま認知症というだけで、搬送・受診までに時間がかかり、最悪な場合は受け入れ拒否という結果にもなる。

ここまでくると人権問題になるのではないか?認知症というだけで、病気や怪我に細心の注意を払いながら生活しなければならないのだろうか?何故なら、病気や怪我をしても診てもらえない現実があるからだ。

そして、ある人は入院できたが、ベッドに拘束され手にはミトン。誤嚥性肺炎かもしれないし、経口摂取は危険だからと“胃ろう”を勧められ、あっという間に寝たきりに近い状態に仕立てられてしまった。

そんな状態でも私の顔は認識され、ぱぁっと明るい表情になる。言葉は出ないが、長く付き合っていると何となく本人が言いたいことも伝わってくる。想いが通じたとき更に表情は明るくなる。

つまりは「早く退院したい。ベッドから降りてトイレに一人で行きたい(入院前日までトイレに行けていた。今はオムツ・・・)。そしてまた皆と一緒に働きたい!」という想いがズバンと直球で伝わってくる。

私は家族から“胃ろう”にしたほうが良いか相談を受けた。私は医師ではないが、経験からして「その判断は如何せん早すぎる」と答えた。昨日まで美味しく食べて飲んでいたのに、今日になって病院をたらい回しさせられた挙句、胃に穴を開ける!?

本人の「また皆と一緒に働きたい!」という想いはどこへ?

以前にも、ここの病院から退院してきた人が怒っていた。医師から“胃ろう”を勧められ処置を許可した。担当医は主治医ではなく、主治医からは認知症だから処置は麻酔使用するよう引き継がれたらしい。ただ担当医の判断で、「処置はすぐ終わるから。僕は何例も処置しているから、麻酔しなくとも大丈夫。」なんて言われ、いざ処置開始。すると処置室から「痛い!母さん!助けて!」と叫ぶ声が。慌しく処置室に看護師が入っていき本人は押さえつけられ、その姿に家族は涙。涙。涙。

結局、処置が終わり担当医から一言。「だから認知症は嫌なんだよ!」だって。

認知症の何が悪いのさ?と声を大にして言いたい!

今までは認知症を“無害化”するために薬の上にまた薬で“落ち着かせて”いたが、そんなことは何年も前のことだと思っていた。我々介護・福祉業界では本人の立場に立って、本人の想いを大切に、本人の生活を一緒に支援していく、ある意味パートナー的な考えが大方の主流となっているのだが、医療の世界ではまだまだ大昔の考えが平然と行われていることに愕然とした。

もちろん、命に関わる事態や治療を最優先する場面では致し方ない部分もあるかとは思うが、それにしてもこの状況はどうなの?と腹立たしい。

私は、ある人を転院させようと画策し、ケアマネ・MSW・転院先の医師を巻き込んでみたが時既に遅し。療養型病床群へ、レールが敷かれたかのように話が進んでいってしまった。そこは寝たきり病院。

本人の「また皆と一緒に働きたい!」という想いを抱えたまま・・・。

医療と介護のケアを同レベルにまで、そして更にお互いが切磋琢磨して高め合わなければ、認知症になると安心して病気や怪我で受診できない現実が、今まさに目の前の世界で起きている。


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