冷酷?温情?ブラックユーモア [感じたこと]

先日、「つながりの開」主催の認知症本人・家族交流会を実施した。来る11月13日(日)に開催されるtitlehead.JPGのよさこい踊りに出場するため、本人・家族・サポーターが一緒に練習をした。詳しくは参加者でもある方のブログで紹介している。→http://blogs.yahoo.co.jp/isetaro0611/14225283.html

今回は、そんな練習会場に参加された“婆ちゃん”のこと。

14人兄弟の末っ子ということもあり、自由奔放のお転婆でイタズラ好き。まさに[いじわるばあさん]のモデルとでも言うべき人。そんな“婆ちゃん”とは7年くらいの付き合いがあるだろうか、お互いに信頼している。

そして嬉しいことに何でも言い合えるような関係にもなった。だからこそ、会話内容は非常にブラックなものも含まれる。例えば、

婆ちゃん「ちょっと!あそこのヨボヨボ爺さん、足でも引っ掛けてやろうか?」

私「いやいや、骨折して手術してリハビリを経て、歩けるようになってきた人ですよ?頑張っているんです。」

婆ちゃん「あら?そうなの?あたしゃ、てっきり歩けなくなってきたと思ったよ。でも、歩けなくなったら死んだも同然ねぇ。」

私「どうして?」

婆ちゃん「歩けなくなったら、どこへも行けないじゃない?お世話になると言っても、連れて行ってくれないでしょう?歩きたくても車椅子に乗れ、乗れってうるさく言われちゃうしねぇ。刺激のない安全な生活なんてつまらないわ!」

私「じゃあ、多少危険でも刺激がある生活のほうが面白い?」

婆ちゃん「当たり前じゃない!あたしゃ、今でもパン食い競争なら負けないよ!勝負してみるかい?」

私「パン食い競争しながら、滑って転んで頭打って死ねるのなら本望だ?」

婆ちゃん「あんたも言うわね(笑)」

私「でもこのままだと120歳まで生きちゃいそうだけど?」

婆ちゃん「嫌だよ~、そんな歳まで生きたかないよ~!もう今すぐにでもお迎え来ないかしら?」

私「そういう人に限って長生きしちゃうんだよねぇ。どうしたものだろう?早く逝けるように、船でも作っておく?もちろん、三途の川をスイスイ~って渡れるように。」

婆ちゃん「泳いだほうが早いわよ(笑)!」

私「じゃ、バタ足がしっかりできるように、足だけは鍛えておきますか!」

婆ちゃん「あんたが担いで渡ってくれりゃ、良いじゃない!」

私「それじゃ、一緒に死んじゃうじゃない(笑)!姥捨て山になら喜んで担いで行くけど?」

婆ちゃん「あ~はっは!あ~面白い!あんたも言うようになったわねぇ(笑)?何だか今日は楽しいねぇ!踊りたくなっちゃうよ。」

私「腹踊りでもしますか!」

こんな感じの会話だったと思う。もの凄くブラックユーモアが織り込まれて、他の人が聴いたら???と眉を顰める内容かもしれない。ただ、この会話には2つの重要なポイントが隠されている。

①これを新人スタッフや関係性が構築されていないスタッフが真似をすると、本人は非常に傷付き会話は失敗に終わる。

②本人は足が衰えていくことや年齢的にも死が近付いてきている不安、認知症の自覚による不安等を持っている。

この②の不安や想いを汲み取りながら、“居るだけで安心”という気持ちになれる存在でありつつ、心を全開にして、全てを受け止めていける心構えを持たなければ、この会話は成立しない。

これを一言で表すと“寄り添う”ということになるのだが、決して“隣に座る”ことではないことを予めお伝えしておきたい。また心を全開にしなければ、相手も全開にならないのだ。

①に対して敢えて説明はしないが「あんたに何でそんなこと言われないといけないの!」と言われてしまうだろう・・・。

会話の内容やスピード、話し方や素振り、立ち位置や座る位置、人それぞれに合わせて変えていかなければならない。本人が心地よく思えるように。


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その場しのぎ [感じたこと]

つい先日の研修会でも伝えたが、デイサービスでよくある場面。

それは・・・、

お昼の配膳場面で、配膳が終わらないがために全員で大合唱をする場面である。別に歌いたくない人は歌わなくとも良いのだが、ここでスタッフから殺し文句が。

「歌わない人はお昼ご飯抜きですよ~!」である。

全員を少ないスタッフで対応しなければならないのは理解できるが、だからといって、全員を同じ場所に集めて同じことをさせる必要性が理解できない。まさに、その場しのぎ。

しかも何故だか全国各地で平然と行われている。

先日の研修会でもそうだったが、参加者に対しては「皆さんは、これから認知症の人になります」と前置きをしておいて、①のスライドを流した。↓

スライド1.JPG

そして全員で②のスライドを歌う(歌わせる)。↓

スライド2.JPG

そして参加者に感想を言ってもらうと、「歌いたくなかった」「恥ずかしい」「結構キツイ」等の意見が聞かれた。もちろん「歌いたかった」という人もいるだろう。

つまりは認知症であっても、私たちと同じ“気持ち”“考え”“想い”を持っていることを実感してもらいたかったのだ。そして日頃の業務を振り返るきっかけになってもらいたかった。

中には喉自慢の人もいるだろう。ただ、強制をしてはならないのだ。強制をすると、そこに生まれるものは不満しかない。

また更に目的を持って歌うと、気持ちに張りが出てくる。例えば〇〇市高齢者合唱コンクール出場とか、小学校や保育園等に逆出張コンサート等を明確にすることで、本人たちの取り組み方も違ってくるだろう。

これも私たちと同じこと。

佐藤雅彦さんも次のようなことをブログに書いている。http://www.dai-jobu.net/blog/masa/2011/09/15/p_688/

改めて考えて欲しい。その場しのぎではない過ごし方を。

スライド3.JPG


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認知症ケアというコトバ???【違和感】 [感じたこと]

「認知症ケア」というコトバ。

認知症ケア専門士、認知症ケア〇〇学会、認知症ケア〇〇研修、認知症ケアの新しい試み、認知症ケアとは・・・、巷では様々な分野で『認知症ケア』というコトバが使われている。

私たち専門職も『認知症ケア』というコトバを疑問視しないまま使ってきている。でも最近思うのことが、この『認知症ケア』というコトバに対して「どうなんだろう???」と感じている。

そもそも論は面倒なのだが重要なので引張ってくるが、ケアとはその人を中心に考えるもの。それは環境などのモノから社会、人、全てを含んで本人を中心に考える。

認知症そのものをケアしている訳ではない。

それなのに『認知症ケア』と呼ぶことに違和感を覚える自分がいる。例えば脳梗塞。ある友人が「脳梗塞ケアとは言わないね」と言っていた。高次脳機能障害ケア、視覚障害ケア、聴覚障害ケア、筋ジストロフィーケア、メタボリックシンドロームケア・・・等々とは言っていない。

それなのに何故、認知症だけ『認知症ケア』と呼ぶのだろう???

ケアというコトバには弱者、障害者の世話をして「あげる」といった強者からのサービスというアメリカのニュアンスがある。ということは、そのままの意味で捉えると認知症を世話して「あげる」という意味になるのか???

例えば認知症を障害として捉え、認知症がある状態から「どのように生活していくか」というリハビリテイトの考えに沿うとしっくりくる。

この考えをケアとすると、障害はケア、病気はキュアと分けると良いかもしれない

では『認知症ケア』はどう考える?認知症をケアしている訳ではないし、他の障害ケアについても考えなければならない。

日本のニュアンスとして、リハビリテイトの考えを基本に置き『認知症生活ケア』とかはどうだろう?他の障害ケアも『高次脳機能障害生活ケア』、『視覚障害生活ケア』などとするほうが自然だ。

答えはすぐには出てこないかもしれないが、モヤモヤしていることを書いて、皆さんの考えるキッカケになればと思った。


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“食べる”機能低下デイサービス [感じたこと]

食べること、それは私たち人間にとって楽しみなことの一つである。誰だって美味しいもの、好きなもの、お腹イッパイ食べたい。

それが認知症になってデイサービスを利用するようになると、食べられなくなる可能性がある。出されるものは“柔らかく”“飲み込みやすく”“味が薄い”The 病人食なのだ。病気ではないのにもかかわらず・・・。

例えば、多くのデイサービスで禁止されているものを挙げてみると⇒大福(喉に詰まる)、煎餅(固い)、ステーキ(噛みにくい)、鰯(小骨が多い)等々。

逆に多くのデイサービスで出されているものを挙げてみると⇒羊羹(飲み込みやすい)、饅頭(柔らかい)、薄切り肉(噛みやすい)、事前に骨を抜いた魚(骨なし)等々。

本人によく聴いてみると、自宅に帰られてから「大福を1個食べてお茶を飲むのよ」とか、「肉汁がたっぷりのステーキは最高!」とか、「鰯を頭から食べる」とかの意見がよく聞かれる。

決めつけてはいないだろうか?

高齢者だから・・・、認知症だから魚の骨を見分けられない・・・、そんなことある訳がない!

人それぞれ嗜好があり、98歳のお婆ちゃんでも「魚よりステーキが食べたい」と当たり前に言われる。ハッとした人、えっ!?と思った人、それは本人に聴いていないだけだろう。

認知症でも無意識に魚の骨を見分けて食べる。いやいや、そこはもう認知症とか高齢者とかは関係ない

それなのにも関わらず、大抵のデイでは「危ないから・・・」の決め台詞で上記のものを禁止してきた。安全なものを提供することで、食事機能を低下させているとも気付かずに・・・。するとデイを利用すればするほど、食事機能は落ちていることにならないだろうか。

本人は自宅で好きなものを食べている。問題なく食べることが出来ている。

デイサービスの“食”に関する場面でも「食事機能を低下させられるために、利用料金を支払っている」ことが起きているのだ。

何度も何度も言うようだが、デイサービスとは心身機能の維持・回復を以て在宅生活を可能な限り続けられるよう支援するもの。

だから、本来であれば利用料金を戴くどころか、「食事機能を低下させてゴメンナサイ」と慰謝料を支払わなければいけないのではないか?

ただし、美味しいものや好きなものを希望されていても、リスクを見極めなければならない。それは自宅での様子を把握し、体調も含めて考え判断する。ある場面では「覚悟」もしなければならないだろう。でも、それが専門職なのではないだろうか?

リスクは生活に付いてくるものと捉える。ある日、利用者のお婆ちゃんが「刺激の無い生活なんて死んだのも同じ。そんなに安全が欲しけりゃ寝てれば良いのよ。でもそれじゃ、死んだほうがマシね~!アンタもそう思うでしょ?」と言っていた。

あなたはどう思う?


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デイサービスの虐待 [感じたこと]

以前より色々なことで一緒に活動している若年認知症の64歳Kさんがいる。Kさんは「働きたいんや!」「自分がまだ社会の役に立てるんであれば、どんなこともやりましょ!」と日頃から言っている。

その想いが実現できる場所では、非常に生き生きとされ表情も明るい。そして「ここは楽しい場所やで」自然と言葉も出るし、口笛で懐メロを吹きながら仕事をされる。スタッフから「口笛チャンピオンだね」と褒められると、照れて顔も赤くなるチャーミングな一面も見える。

現在Kさんは要介護5。

上手く言葉にできなかったり、前後左右に体が傾くこともあったり、視野が狭く頭をぶつけたり、歩行も前傾姿勢で止まらなかったり、もちろん食事やトイレは支援が必要。

このような状態を自覚されているからこそ、ストレスは溜まる一方だと思う。自分なら星一徹のようにちゃぶ台をひっくり返しているだろう。そんなストレスフルの中でも、Kさんは思いやりの心を持ち続けている。聞くところによると、昔から家族思いの優しい“お父さん”だったという。それは「今も変わらない」と長女は言う。

そんな優しいKさんは、現在3箇所のデイサービスに通っている。Aデイサービス事業所、Bデイサービス事業所、Cデイサービス事業所とここでは区別してみる。

まずAデイサービスとBデイサービス。

ここは高齢者中心の場所であり、流れや過ごし方も“高齢者流”であって、いわゆるTHE・デイサービスなのだ。ここではKさんの「働きたいんや!」「自分がまだ社会の役に立てるんであれば、どんなこともやりましょ!」という想いからは遠くかけ離れているのが現状。

そして体は傾きつつあるが、まだまだ歩けるKさん。ただ前傾姿勢で歩くと止まらなくなり「危ないから」という鎖の一言で、ずっとイスに座り続けさせられる。しかも視野が狭いことと優しさを利用して、壁に向かって一人座らせられ、すぐに歩き出せないようソファーで囲っているのだ。横にはチョンと気休め程度にラジカセが置かれ、懐メロが流れてくる。Kさんは懐メロが流れてくると口笛を吹き始め、座り続けてはくれる・・・。

Kさんは何も言わないが、きっと辛い時間なんだろう。だってこれは歴とした虐待だし、スタッフはKさんが“落ち着いてきた”から「これは音楽療法ね」なんて言っている。虐待を自己流の音楽療法というもので包み隠して言い訳にしている。

言うなれば、KさんはAデイサービスとBデイサービスに通い、虐待を受けて心身機能を低下させられるために、利用料金を支払っている。

何度も言うようだが、デイサービスとは心身機能の維持・回復を以て在宅生活を可能な限り続けられるよう支援するもの。

だから、本来であればAデイサービスとBデイサービスは利用料金を戴くどころか、「心身の機能を落としてゴメンナサイ」とKさんに慰謝料を支払わなければいけないのではないか?

ちなみにCデイサービスはKさんの「働きたいんや!」「自分がまだ社会の役に立てるんであれば、どんなこともやりましょ!」という想いを実現し、一日活動的に過ごしている。しかもボランティア就労ということもあり、ボランティアの依頼先より謝礼を戴いているそうだ。

Cデイサービスは社会参加と社会的役割に重きを置き、また地域との相互交流を図り、本人の声を大切にしながら活動している。特に意識せずとも、活動自体がリハビリの役割も果たし、気付かないうちに心身機能の維持・回復につながっている。更にはストレスまで発散している。

こんなCデイサービスが増えると良いのだが、現実はAデイサービスとBデイサービスばかり。これでは団塊の世代は安心して認知症になれないだろう。だって認知症になると介護保険という公的なお金を使って公然と虐待があるのだから。しかもそれが、正しい行為と思われているからタチが悪い。

ここは大きな期待と希望を込めて、Cデイサービスの在り方が普及するためにも、それが“一般的”になるためにも、強く大きく応援したい。


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若年認知症の年齢による壁 [感じたこと]

若年認知症、いわゆる18歳~64歳までに発症すると総称してこう呼ばれる。単に認知症と言っても色々と種類が分かれている。

アルツハイマー型認知症、レビー小体型認知症、前頭側頭型認知症、脳血管性認知症、頭部外傷後遺症、大脳皮質基底核変性症、クロイツフェルト・ヤコブ病、エイズ脳症など全部で72~74種類あると言われている。

その中でも私の知っている若年認知症の方で24歳女性がいる。

つい先日、第一子が生まれて喜んでいたが、どうも気分が優れない。産後の「うつ」が思い当たりメンタルクリニックへ受診される。

やっぱり「うつ」と診断。

服薬をしても一向に良くならず、子どもにミルクをあげようと思い準備していると何か変。子どもは泣いていない。「ひょっとしたらミルクはあげたのかも・・・?」そう思うと不安が一気に増大。

この方は映画「私の頭の中の消しゴム」を観ていた。だから気付いたんだそう。そして総合病院の診断結果はアルツハイマー型認知症の疑い。

これからのこと、子育て、新妻として、母親として、両親のこと、目の前が真っ暗になった。

この女性は24歳という若さなので、介護保険サービスが使えない。障害者自立支援法のサービスは利用できるが、果たして・・・。

また64歳の男性もいる。

この方は10年前にアルツハイマー型認知症と診断され、会社の上司に理解が得られず、毎日のように「こんな仕事もできないのか!」と怒られていくうちに不安と恐怖で退職せざるを得なかった。

退職後は自宅に閉じこもり、自信とプライドを失い、生きる希望まで見出せなくなっていった。

しかし現在は、とある介護保険デイサービスを利用しながら就労ボランティアをして、ボランティアの依頼先から謝礼を受け取っている。それが生きがいにもなり、輝いている。「これでビール飲むのが最高なんです!」と言っている。

ただここでも年齢の壁がある。

65歳になると介護保険デイサービスで就労ボランティア活動しても、謝礼を受け取れないのだ。この謝礼が受け取れる仕組みは64歳まで。

近々誕生日を迎えるのだが、誕生日を迎えた瞬間に謝礼で購入していたビールも飲めなくなってしまう。すると生きがいはどうか・・・?

いつでも誰でも認知症になる可能性があるならば、認知症でも安心して暮らせる町づくりが必須ではないだろうか?

認知症でも安心して暮らせる町は地域によって変わってくる。その地域特性を生かした形で取り組めば、個性豊かな地域が増えていくだろう。

認知症の人は自分に合った地域を(地元と言われる人が多いかもしれないが)選び、安心して暮らしていけることができるのだ。

地域が人を選ぶのではなく、認知症の人が地域を選べるようにすると、過疎化している地域にも人が押し寄せるなんてこともあるかもしれない。

そうなると、認知症でも安心して暮らせる町から認知症でも安心して暮らせる日本へ!なるだろう。

誰でも認知症になる可能性がある。このブログを見ているアナタも例外ではない。もちろん私もだ。つい先日、若年認知症に関する新聞記事が載っているのを見つけた。

http://mytown.asahi.com/tottori/news.php?k_id=32000001109050004&ref=chiezou


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どこが認知症ケアの現場リーダー?主任? [感じたこと]

最近の介護保険制度にもよるのかもしれないが、明らかに“わかっていない”認知症ケア職の現場リーダー的な人が多い。

ここ最近で一番愕然としたのは、「僕が現場に入ることは有難いと思って」の一言。

思わず何様なんじゃぁ!と声に出してしまった。そしてその後、開いた口が閉まらない状態に。

確かに介護保険制度では、作らなくてはならない記録やら書類やらがある。またリーダー職ともなるとシフトも考えなくてはならないし、家族やケアマネとの連絡調整や担当者会議への出席、イベントの企画や準備など、挙げればキリがないくらいケア以外の雑務や事務仕事が待ち受けている。

にしてもだ。

主任だろうがリーダーだろうが、ケア職本来の業務はケアであるはず。書類は後回し。これが基本のスタンスではないだろうか。

(私の場合は、書類を後回しにし過ぎて監査や情報公開のときに大変な思いをしたが。)

とは言え、書類も大切なので作成していかなければならない。ただし全部を残業に回せとは言っていない。通常業務中にも隙を見計らって出来るはず。始めから無理だと決めつけているから出来ないだけなのだ。

始めから大変だと思わずに、認知症当事者の方との雑談の中で、自然と色々と聞きだすようにしてみる。意味のない雑談はいらない。その中で、生活が見えてくることもあれば、ケアのヒントを気付く、頂けることもあるだろう。それを書類に落としていけば良いのだ。

その書類に落とす時間だが、“手”の空く時間があるはず。5分でも10分でも。それを有効活用すれば良いだけのこと。

そして幾ら主任やリーダーだからといって、決して一人では現場は回らないし、頼れる仲間が周りには大勢いる。

良くも悪くも上司もいるだろう。相談相手もいるではないか。一人で仕事を抱え込まず、チームとして考えれば出来ないことも少なくなるはず。

だから「僕が現場に入ることは有難いと思って」とは言わないほうが良い。それを聞いたスタッフたちのモチベーションは下がる一方。

チームのモチベーションが下がるとケアの質も下がる。

主任やリーダーはチームのモチベーションを保ちつつ、働きやすい現場環境を考え、尚且つチームとしての方針やコンセプトを明確に打ち出して、スタッフの体調管理を含めた気遣い、そしてスタッフへの教育も仕事の一環だ。

やることも多いだろうが、それが“主任”や“リーダー”といったものであるし、責任者として手当も出ているだろう。

認知症ケアを語る前に、人間性を修正して欲しい。


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抑制デイサービス [感じたこと]

「今日は暑いので、皆さん室内で過ごしましょう!」と張り切って伝えるデイサービスの職員を見かけたことがある。

この一言が出た瞬間、『1日室内に閉じ込め作戦』がスタートする。それはデイルームという閉鎖的な空間に閉じ込めることで、ある意味、抑制だ。

スタッフは作戦内容として“どのように時間を潰す”かで頭がイッパイ。出入り口近付に行こうものなら「あちらでお茶でも飲みませんか?」と絶対に外へ出さないようにする。

何度も続くとスタッフはピリピリし始めて、その人を見張り始める。

また過ごし方としても、趣味嗜好や個性など一切考慮せずに全員で塗り絵。しかもスタッフは本人たちの周りをコツコツと試験監督のように歩き回る。やりたくない人がいたら「塗りましょう!楽しいですよ!」と見当違いの声掛け。

そしてついに、「なんだって俺が、こんな、こんな、違うんだよ!このやロー!!」と一人の男性が立ち上がると、その人は“暴言”“拒否”という言葉の首輪を付けられてしまう。

他にも全員で体操やら歌やら・・・。とにかく全員参加が基本になっていて、規律正しい。ここでも「○○しないと帰れませんよ~」とか、「○○しないと食事が出ませんよ~」とか。イントネーションは優しいが、内容は刑務所と同じ。

本人中心ではなく、スタッフ中心の抑制デイサービス。まさに刑務所。

私なら行きたくない。もし私が認知症で「行きたくない!」と声に出せずに体で表現したら、この抑制デイサービスからは“暴力”“拒否”という首輪を付けられてしまうのだろうか。

完全な人格否定と精神的苦痛で傷害訴訟を起こすと思う。

また戻るが、「今日は暑いので、皆さん室内で過ごしましょう!」の内容に皆さんは引っ掛からなかっただろうか?

何故、暑い日は外出できないのか?高齢者だから?認知症だから?

専門職であれば逆の考えが浮かんでくるはず。

朝から利用者回収車の送迎車両が自宅前まで迎えに来て、車内はクーラーで快適。数十分も揺られて到着した先のデイサービスもクーラーで快適。一日室内にいれば「新年明けましておめでとうございます。」という季節になるのも当然。

日めくりカレンダーをスタッフが指差しても、数分後に「新年明けましておめでとうございます。」になるだろう。

この暑い日差しの中、外出することに意味がある。

それは否応なく感じる暑さ、蝉の声、木々の深い緑色・・・、体全体で、それだけで“夏”と感じることができるだろう。私はそれを“ピント調整”と言っている。

水分不足や体力面を考慮するのは当たり前。どこまでなら行けるか、どんな目的を持ってもらうと行こうとする気持ちになるかを考えることが、専門職の仕事ではないだろうか。

そう言うと、往復車両移動で、行先は美術館となりがち。それだとピント調整はできない。

外出することで社会とのつながりを維持できる。

デイサービスは決して社会から切り離された陸の孤島ではないのだから。


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介護者家族 [感じたこと]

前回の「特養は必要か?」に関して多くの質問が来た。「介護者が置き去り」「介護者のことを考えていない」~「確かに!」「共感する」まで色々と。

このやり取りを待ち望んでいた私にとっては有難い。

今まで認知症本人に関連することを取り上げてきたが、ちょっと今回だけ介護者家族支援について感じていることを書いてみる。

もともと、介護保険サービスは本人が利用するためのものであって、介護者の負担軽減は結果であり目的ではないはず。それでもケアマネの多くは、介護保険サービスが介護者の負担軽減に重点を置きがちだ。

だからケアマネは「奥さんが倒れたら大変ですよ。少し休憩の意味でも、ご主人にショートステイに行ってもらいましょう。」とか、「特養へ入所する際に、慣れておいたほうが良いですからね。」と丸め込む。まるで、教科書でもあるかのように、多くのケアマネはこの決め台詞を使うのだ。

行ってもらいましょう=本人の意思は?

慣れておいたほうが良い=入所に慣れるもクソもあるか!
 
とケアマネの悪口はここまでして、介護者の負担軽減を本気で考えなければいけない。私が考えていることはサービスの目的を完全に分離し、同じ介護保険法の中に2種類設ける。
一つ目は本人のため。
二つ目は介護者のため。
 
本人が本当に利用したいサービス、または本人にとって本当に必要なサービスと、介護者の負担軽減を目的とした介護者が利用できるサービスだ。本人不在でも利用可能ということを前提として、例えば、

ホームヘルプ・・・疲れたとき、少し休みたいときに介護者の変わりとなる。もしくは家事等の日常生活に必要で負担になっていることをヘルパーさんが担い、介護者は休息。

ショートステイ・・・本人と少し距離を置きたいとき、休みたいときに介護者が宿泊できる行政提携旅館やホテルタイプ。1泊2日~

温泉エステ・・・認知症本人の介護者認定証を提示すると、月内一定回数、予め指定された温泉施設の中で気分転換できる。

その他にも色々あるが、訪問介護・ショートステイ・通所介護の介護者バージョンと考えると想像しやすいだろうか。

介護者に関することで、有名な事件がある。知っている人も多いかと思うが、何年も前のことだからこそ、風化しないようにしたい。↓
http://www.youtube.com/watch?v=QLjXRMoM7Ec 

介護保険法でいう「社会全体で支え合う」の範疇には、本人はもちろん、介護者も含めて社会全体で支え合うものだと私は考えている。
 
地域や町全体が特養になれば・・・と前回締めくくったが、特養機能を地域や町全体が持つようになれば、施設へ入所させてしまった罪悪感も生まれず、本人の意思も尊重され、家族の介護負担も軽減されつつ、財政面も安定する。もちろん、認知症本人が一人で好きに買い物もできて、認知症でも安心して暮らせるまちになる。長くなってきたので、詳しくは機会があれば。

社会全体で支え合うまちと介護保険制度。皆で真剣に考え行動していく必要があるのではないだろうか?

あなたはどう思う?


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特養は必要か? [感じたこと]

すぐそこまで来ている超高齢化社会。また認知症の方も400万人を突破することも目前。

そんな中、特養の待機者が多くいることはご存じの通りで、300人待ちなんていうのはよく聞く話。多くの方が複数申込みをしているので、実際の待機者数はまた別なのかもしれないが、とにかく「生きているうちには順番が回ってこない!」といった感想も聞かれる。

そこで国が全国に特養を増設していく方向だという。

でもこれは、またしても上辺だけのニーズを見ているだけ。その後のことを考えず、建設&建設&建設。例えば、超高齢化社会の後にくるのは、超少子化社会。きっと特養は余るだろう。

それよりも、もっともっと矛盾しているのが、「本人のニーズに沿ったサービス」とか「本人中心に」とか、いわゆる介護保険法の“措置から契約へ”といった流れになっているのだろうけれど実際は違う。

実際は・・・

「本人は特養に入りたいと思っていない」、「家族中心に」、「本人が選ぶサービスではなく、ケアマネか家族が選ぶサービス」

「認知症で契約ができなければ成年後見制度」

ではないだろうか?問題はもっと深いところあると思う。ただ、箱モノを準備すれば良いということではない。

●なぜ、在宅介護が破綻してしまったのだろうか?

●なぜ、巡回型や夜間対応型の訪問介護が創設されたが、本来の目的は?

●小規模多機能はなぜ運営が厳しい?

挙げるとキリがないが、国の思惑がことごとく外れている。それでもまだ特養を増設して、税金の無駄遣いを考えている。今現在も人手不足と言われているのに。学校の先生たちは進路指導で、「介護業界は勧めないなぁ」と言っている。誰が今後の介護業界を担っていくのだろう?

まずは本来の、本当の、心の裏にあるニーズを把握し、本当に必要な支援を必要な個所に必要な時間を提供することができれば、それが本来の介護保険法の施策ではないだろうか。

「特養に入ったらずっと上を向いている。何も言わずに。。。」

「あっという間に寝たきりになってしまった。」

「もう少し在宅介護を頑張ればよかったと後悔している。」

こんな声も少なくない。なのに特養はこれから増設が必要か?

地域が特養になれば解決すると思うが・・・。皆さんはどう考える?


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