ニンチショウ? [感じたこと]

久し振りのブログ更新。最近は何だか忙しく、パソコンには触るが自分のブログもチェック出来ない程、色々なことが身の周りで起きている。

自分自身のこともあるが、ちょっと町田でじっくりと腰を据え、地域に根を張り活動していこうと思う。そんな中だけれど、認知症について改めて考えてみたい。 

以前より認知症のことを「ニンチ」と略している人がいる。そもそも、心理学の中で認知という言葉は、 ある対象を知覚した上でそれが何かということを判断したり解釈したりする過程のことを指す。けれども「ニンチ」と略している人は、認知の意味を知って使っている訳ではない。多くは、職場の先輩が使っていたからとか、楽だからとかの理由だろう。

何故、カタカナで「ニンチ」と書いているか。略している人は話し言葉で「ニンチ」と略しているからだ。実際にあるケア専門職同士の会話。

「〇〇さん、最近ニンチ進んだよね~。だってさ、入って(入居)きた時と比べて、もう完全に顔がニンチの顔だもんね~。あそこまで進んじゃうと、もう何もわからなくなっているんじゃない?もう、人生終わっているよね~」という内容。

完全に言葉の暴力、虐待、差別である。

ここから歯止めが利かなくなると、更に身体的な虐待へと発展することがある。恐ろしい話だが、このケア専門職たちは悪気もなく至って普段の会話となってしまっている。気付いていないのだ。性質が悪い。

痴呆症から認知症へと呼称が変更された背景には、差別化がないようにということも含まれている。それでも至る所で「ニンチ」と呼ばれている現実がある。根本を変えないと、いくら呼称を変えても同じだ。

それと同じく「アルツ」と略している人もいる。これは元々、アルツハイマー型認知症のこと。これも会話では「〇〇さんってどんな疾患だったけ?アルツだっけ?」・・・もうここまで来ると、溜息しか出てこない。「ニンチ」「アルツ」と呼んでいる人ほど認知症の知識を知っているつもりになっている。

知識は武器でもあるが、知識だけでは専門職とは言えない。知識だけの認知症ケア専門士もいるというのだから呆れてしまう。

これを読んで気付いたアナタ、明日から略すことをまず止めてみよう。認知症を“抱える”もね。 


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皆でよさこい踊り2 [活動報告]

なんと!前回お伝えした「町田夢舞生ッスイ祭り“よさこい”」で踊っていた場面がYouTubeにアップされていた。

https://www.youtube.com/embed/M7YYaTZrO7s?rel=0

次回は、自前のオリジナルソング&オリジナルダンスを披露し、目指すは市長賞!と盛り上がっている。町田に住みたくなってきた人もいるのではないだろうかと、最近思い始めた。 


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皆でよさこい踊り [活動報告]

去る11月13日(日)に町田夢舞生ッスイ祭りに「つながりの開」として出場を果たした。参加者は子ども~高齢者まで年代バラバラ、認知症の方、家族、サポーターが入り混じる複合チームとなり、総勢45名近くで「よさこい」を踊った。

20111113.jpg
福祉祭りではなく市民祭りに出場することに意義を感じ、開の活動趣旨でもある『どうすれば安心して暮らせる町田市になるのか』、という取り組みの一環としての出場だった。周りはかなり力が入っている本格チーム38団体がズラリ。
当日の詳細は他の方がブログに書いているので、そちらを参照頂きたい。
当初考えていたこともあった。それは、休憩ポイントとして出店ブースの裏にイスを置き、授産施設の人たちにそのブース前面で豆腐やパンを売ってもらう企画も考えていた。ただ、「踊ろう!」と言い出したのが8月頃。時間が足らずに実現できなかったが、来年は是非!
なぜなら、認知症の方、高齢者、障害者、子どもなど、皆、地域で暮らす一員だから。
そんな「つながりの開」でこんなエピソードがあった。普段は認知症の方や家族をサポートしている専門職なのだが、その人の子どもが熱を出した。夜間救急で診てもらうと、対応してくれたナースが、
サポートしている認知症の方の家族だった。普段は支える側に立っていると思っていたけれど、
支えられてもいると感じた。
こんな小さなつながりが、広がっていくことが「つながりの開」の目指すところでもある。
些細な支え合い、
気付かないところでつながっている、
それが、安心して暮らせる町田市になるのではないかと考えている。
※写真提供は徳田さんhttp://where-is-my-doctor.blog.so-net.ne.jp/


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ケアマネって・・・ [感じたこと]

これからケアマネについて感じたことを書いていく。予め断っておくが、全てのケアマネに対して言っている訳ではなく、一部のケアマネに対して言いたいことがある。それは・・・、

一言で表すなら「おばちゃんケアマネ(注)」が多いということ。ケアマネという職種は誰でもなれるのかい?

ケアマネ試験の合格率は20%と聞く。私自身も4~5年前に取得したのだが(アレ?更新は??)、恐らく同じような合格率だったと思う。このケアマネ受験資格が曲者だ。

まず、ヘルパー2級の所持者でも5年の実務経験があれば受験できる。また介護福祉士も同様の実務経験があれば受験できる。つまりは給与アップやキャリアアップを目指して、以下のような流れが大半を占めている。

ヘルパー2級取得→(実務経験3年)→介護福祉士国家資格登録→(実務経験2年、もしくは5年(ヘルパーと合わせて5年、もしくは単独で5年))→介護支援専門員

もちろん、それぞれ受験を要する訳なのだが、専門教育といった分野が欠けていることが問題だと思う。だから、おばちゃんケアマネによっては、「私、認知症苦手なのよね~。アナタ代わってくれる?」なんていうことを平気で言っちゃったりする。

もしくは認知症の人を支援できずにどうして良いかわからないケアマネもいる。

もちろん、自己研磨をし専門性を高める人も多い。ただ、一部のケアマネが質を落とすことで全体のイメージや質が落ちていくのだ。 

例えばサービス担当者会議でも、終始、井戸端会議や雑談で終わることが多い。もちろん、認知症の本人抜きで会議を進めて、更には何を目的としてチームで共有するのか、明確にせぬまま会議を終わらせようとする。自宅のお風呂に入れないという課題があるにもかかわらず。

しかも、しっかりとお茶だけは飲んでいく・・・。

会議が終わった頃に、初めて認知症の本人に「お体の具合はいかがですか~?」なんて、つくり笑顔のつくり優しさオーラを出して声を掛けている。気持ち悪い。

そして居宅サービス計画の内容はAさん、Bさんと同じ。電話で問い合わせると、リーサルウェポンとして出てくる言葉は「私、現場では一般のデイだったから」と意味不明な言い訳。

厚労省が打ち出した今後の方向性では、介護福祉士の受験資格が[実務経験3年]+[実務者研修450時間]になるようだが、専門性を叩き込むつもりなのだろうか?

それならいっその事「認知症支援専門員」なるものを創設してみたらどうだろう?でも、全体のことを考えるとそう上手い方法ではない。

それならば、実績作りのための研修は止めて、[実務者研修450時間]や[資格更新研修]の内容を充実させ、“人を育てる”ことに特化していった方が良いだろう。何故なら、ケアマネはある意味、他人の人生を変える力を持つ訳なのだから。

これを読んだ専門職ケアマネの方は気分を害したことだろう。ただ、おばちゃんケアマネに限って言えばドキッとしたか、もしくは知らんぷりを決め込むはず。ならば、ドキッとした人はこれから自己研磨していって欲しい。

(注)おばちゃんケアマネとは、ここでは男性・女性関係なく表している。 


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外出時の「お手てつないで」 [感じたこと]

デイサービスによくある風景。それは公園などを散歩している場面で、チノパンにポロシャツ姿のスタッフと本人が手をつないで歩いている。

いかにもスタッフとわかる揃いの服装(チノパン&ポロシャツ)で、皆神経を尖らせながら手をつないでいる。もしくは本人と一緒に車いすを押している。

服装に関しては、「何で皆同じ格好なのだろう?ユニフォーム?いかにも福祉色だなぁ・・・」と感じる部分が多いが、それはひとまず置いておく。

手をつないで歩く。

この行為が自立支援のためとは思えない。中には一人で歩くことに不安が強く、本人が希望されることもあるだろう。それでも、大方は“安全のために”とスタッフが勝手に判断して行っている行為なのではないだろうか?

手をつないで歩く。

いつも手をつないで歩いていると、いざ一人で歩かなくてはならない場面になったとき、果たして歩くことができるのだろうか?

手をつないで歩く。

高齢者だけではなく、若年と呼ばれる比較的若い世代(40~70代前半←あえて64歳としなかった)であっても、必ず手をつなぐ。何でだろう?

もっと行き過ぎた感が否めないのが、脇を支える&腕を組む。

こうなると本人が犯罪者のように見えてくる。しかも本人の表情は眉間にしわが寄っている。明らかに嫌なのだ。本人が嫌だと感じているのに、手をつなぐ。脇を支える。腕を組む。もう「何が何でも転ばせない!」とスタッフの強い意気込みさえ感じてしまう。

何故、認知症の人がデイサービスの散歩を一人で歩いては危険なのか?確かに注意力が低下して石に躓く、段差に躓くこともある。その場合はスタッフが危険を察知して、その都度、本人に伝えることをすれば良いのではないだろうか?もちろん、自ら危険を察知できる人も多い。

認知症の人全員に同じ対応をすること自体が???である。

ではスタッフ&管理者にわざと「何故、そんな危険な思いをしてまで散歩をするの?」と意地悪く聞いてみると、大抵「散歩は体に良いって聞きます。」「他の事業所もしているし・・・」と回答される。

散歩の目的がない。

意義を知らない。

ダメだこりゃ。

散歩くらい一人で自由気ままにしたい!という私の想いは、認知症になりデイサービスを利用すると叶わないのであろうか?


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介護ハウス!? [感じたこと]

友人がシェアしていた、ある研修会の写真。これを見て欲しい。

HOUSE.JPG

私はこの写真を見て愕然とした。現在の座敷牢ではないか!姿かたちはプレハブ小屋だが・・・。

現在でも自宅の庭に設置して、認知症の本人を押し込め「在宅生活」、「同居」と言っている人たちがいることに恐怖さえ感じる。何故、恐怖を感じるかと言うと、悪気がないからだ。いや、業者にはあるかもしれない。

そもそも、「介護用ハウス」というネーミング自体が間違っているのではないか?犬小屋ともとれるニュアンスを感じずにはいられない。

ちなみに「介護用ハウス」をネットで検索してみると、何社もヒットした!上記の写真よりもまだ“マシ”なのだが、明らかに現在の座敷牢を呈している。それも、玄関から入るつくり(当たり前か)だから、外側からカギを掛けられるのである。  もちろん、健全な会社もヒットしてしまうが・・・。

震災後の仮設住宅として、ケアしやすいよう設計された仮設支援(介護)用住宅(ハウス)なら理解できる。でもこれは常設なのだ。

業者は明るく爽やかに宣伝しているが、私は違和感イッパイで、悲しくもなってきた。

家族としても様々な事情があるだろう。「本人のためにと思って・・・」と言うのかもしれない。また「迷った挙句に。。。」と言うのかもしれない。そして罪悪感を拭う「結構快適みたいですよ」の一言。でも、これは仕方がない。悪気もある。

こういう業者は家族が精神的に弱っているところに狙い撃ちする。

問題なのは『本人はどう思っているのか?本人に了承を得たのか?本人が希望したのか?』ということなのだが、精神的に弱った家族を業者が丸め込み、周りで勝手に決めて進めた話なのではないだろうか?

そこに第三者でもある支援者が入れば、変わるのだろうが・・・。

先人たちの苦労や、本人が勇気を持って想いを打ち明けてくれたことで、未熟だがケアが確立されつつある現在。でもこれは、時代の逆行と取れるものだ。

何だか怒りを通り越して悲しくてしょうがない。皆さんはどう思う?


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冷酷?温情?ブラックユーモア [感じたこと]

先日、「つながりの開」主催の認知症本人・家族交流会を実施した。来る11月13日(日)に開催されるtitlehead.JPGのよさこい踊りに出場するため、本人・家族・サポーターが一緒に練習をした。詳しくは参加者でもある方のブログで紹介している。→http://blogs.yahoo.co.jp/isetaro0611/14225283.html

今回は、そんな練習会場に参加された“婆ちゃん”のこと。

14人兄弟の末っ子ということもあり、自由奔放のお転婆でイタズラ好き。まさに[いじわるばあさん]のモデルとでも言うべき人。そんな“婆ちゃん”とは7年くらいの付き合いがあるだろうか、お互いに信頼している。

そして嬉しいことに何でも言い合えるような関係にもなった。だからこそ、会話内容は非常にブラックなものも含まれる。例えば、

婆ちゃん「ちょっと!あそこのヨボヨボ爺さん、足でも引っ掛けてやろうか?」

私「いやいや、骨折して手術してリハビリを経て、歩けるようになってきた人ですよ?頑張っているんです。」

婆ちゃん「あら?そうなの?あたしゃ、てっきり歩けなくなってきたと思ったよ。でも、歩けなくなったら死んだも同然ねぇ。」

私「どうして?」

婆ちゃん「歩けなくなったら、どこへも行けないじゃない?お世話になると言っても、連れて行ってくれないでしょう?歩きたくても車椅子に乗れ、乗れってうるさく言われちゃうしねぇ。刺激のない安全な生活なんてつまらないわ!」

私「じゃあ、多少危険でも刺激がある生活のほうが面白い?」

婆ちゃん「当たり前じゃない!あたしゃ、今でもパン食い競争なら負けないよ!勝負してみるかい?」

私「パン食い競争しながら、滑って転んで頭打って死ねるのなら本望だ?」

婆ちゃん「あんたも言うわね(笑)」

私「でもこのままだと120歳まで生きちゃいそうだけど?」

婆ちゃん「嫌だよ~、そんな歳まで生きたかないよ~!もう今すぐにでもお迎え来ないかしら?」

私「そういう人に限って長生きしちゃうんだよねぇ。どうしたものだろう?早く逝けるように、船でも作っておく?もちろん、三途の川をスイスイ~って渡れるように。」

婆ちゃん「泳いだほうが早いわよ(笑)!」

私「じゃ、バタ足がしっかりできるように、足だけは鍛えておきますか!」

婆ちゃん「あんたが担いで渡ってくれりゃ、良いじゃない!」

私「それじゃ、一緒に死んじゃうじゃない(笑)!姥捨て山になら喜んで担いで行くけど?」

婆ちゃん「あ~はっは!あ~面白い!あんたも言うようになったわねぇ(笑)?何だか今日は楽しいねぇ!踊りたくなっちゃうよ。」

私「腹踊りでもしますか!」

こんな感じの会話だったと思う。もの凄くブラックユーモアが織り込まれて、他の人が聴いたら???と眉を顰める内容かもしれない。ただ、この会話には2つの重要なポイントが隠されている。

①これを新人スタッフや関係性が構築されていないスタッフが真似をすると、本人は非常に傷付き会話は失敗に終わる。

②本人は足が衰えていくことや年齢的にも死が近付いてきている不安、認知症の自覚による不安等を持っている。

この②の不安や想いを汲み取りながら、“居るだけで安心”という気持ちになれる存在でありつつ、心を全開にして、全てを受け止めていける心構えを持たなければ、この会話は成立しない。

これを一言で表すと“寄り添う”ということになるのだが、決して“隣に座る”ことではないことを予めお伝えしておきたい。また心を全開にしなければ、相手も全開にならないのだ。

①に対して敢えて説明はしないが「あんたに何でそんなこと言われないといけないの!」と言われてしまうだろう・・・。

会話の内容やスピード、話し方や素振り、立ち位置や座る位置、人それぞれに合わせて変えていかなければならない。本人が心地よく思えるように。


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DFC旅サポ「湯河原温泉&みかん狩り」 [気付きのきっかけ]

今回、[DFC]・[旅行会社]・[つながりの開]にて、認知症の本人・家族・サポーターが1台のバスをチャーターして湯河原温泉へ日帰り旅行を開催した(詳しくは右下の安心できる医療・介護に出会うために 【認知症版】 をクリック)。

バスといっても一般の大型バス。出入り口にはステップがあり、後部座席は宴会席。そこに車いすの方も参加され、サポーターの方たちによってスムーズに昇降できた。

サポーターといっても、専門職だけではなく、参加者の知人や一般企業の人も入り混じっている。いわゆる“サポート”の名の下に集った人たちだ。

このサポーターたちはバスの中だけでなく、旅行中あらゆる場面で、認知症の本人とサポーターという関係ではなく、人対人の関係で接していた。

例えは悪いかもしれないが、サッカーで言うフィールド上の選手11人が認知症の本人で、サポーターは12人目の選手。常に同じ視点や考えに立つことで、世界観を共有することができる、そんな言葉が当てはまる。例えは悪いが・・・。

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私の例えは悪いが、その「人対人」という自然な接し方、共に旅行をする仲間、1日を楽しむ者同士として、心のバリアフリーとでも言うのだろうか、壁がない。

こちらのブログも見てもらいたい。→https://aspara.asahi.com/blog/nobusan/entry/tnYYFL5kXg

そして、旅が終わる頃には仲間意識がアップしていて、帰りのバスの中はカラオケボックス状態。皆、歌う、そして歌う、またまた歌う。 

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日常の中の非日常である旅行。そんな素敵な旅行が認知症だからといって行けなくなるなんていうのは不自然。旅行に行けること、それが当たり前。


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その場しのぎ [感じたこと]

つい先日の研修会でも伝えたが、デイサービスでよくある場面。

それは・・・、

お昼の配膳場面で、配膳が終わらないがために全員で大合唱をする場面である。別に歌いたくない人は歌わなくとも良いのだが、ここでスタッフから殺し文句が。

「歌わない人はお昼ご飯抜きですよ~!」である。

全員を少ないスタッフで対応しなければならないのは理解できるが、だからといって、全員を同じ場所に集めて同じことをさせる必要性が理解できない。まさに、その場しのぎ。

しかも何故だか全国各地で平然と行われている。

先日の研修会でもそうだったが、参加者に対しては「皆さんは、これから認知症の人になります」と前置きをしておいて、①のスライドを流した。↓

スライド1.JPG

そして全員で②のスライドを歌う(歌わせる)。↓

スライド2.JPG

そして参加者に感想を言ってもらうと、「歌いたくなかった」「恥ずかしい」「結構キツイ」等の意見が聞かれた。もちろん「歌いたかった」という人もいるだろう。

つまりは認知症であっても、私たちと同じ“気持ち”“考え”“想い”を持っていることを実感してもらいたかったのだ。そして日頃の業務を振り返るきっかけになってもらいたかった。

中には喉自慢の人もいるだろう。ただ、強制をしてはならないのだ。強制をすると、そこに生まれるものは不満しかない。

また更に目的を持って歌うと、気持ちに張りが出てくる。例えば〇〇市高齢者合唱コンクール出場とか、小学校や保育園等に逆出張コンサート等を明確にすることで、本人たちの取り組み方も違ってくるだろう。

これも私たちと同じこと。

佐藤雅彦さんも次のようなことをブログに書いている。http://www.dai-jobu.net/blog/masa/2011/09/15/p_688/

改めて考えて欲しい。その場しのぎではない過ごし方を。

スライド3.JPG


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認知症ケアというコトバ???【違和感】 [感じたこと]

「認知症ケア」というコトバ。

認知症ケア専門士、認知症ケア〇〇学会、認知症ケア〇〇研修、認知症ケアの新しい試み、認知症ケアとは・・・、巷では様々な分野で『認知症ケア』というコトバが使われている。

私たち専門職も『認知症ケア』というコトバを疑問視しないまま使ってきている。でも最近思うのことが、この『認知症ケア』というコトバに対して「どうなんだろう???」と感じている。

そもそも論は面倒なのだが重要なので引張ってくるが、ケアとはその人を中心に考えるもの。それは環境などのモノから社会、人、全てを含んで本人を中心に考える。

認知症そのものをケアしている訳ではない。

それなのに『認知症ケア』と呼ぶことに違和感を覚える自分がいる。例えば脳梗塞。ある友人が「脳梗塞ケアとは言わないね」と言っていた。高次脳機能障害ケア、視覚障害ケア、聴覚障害ケア、筋ジストロフィーケア、メタボリックシンドロームケア・・・等々とは言っていない。

それなのに何故、認知症だけ『認知症ケア』と呼ぶのだろう???

ケアというコトバには弱者、障害者の世話をして「あげる」といった強者からのサービスというアメリカのニュアンスがある。ということは、そのままの意味で捉えると認知症を世話して「あげる」という意味になるのか???

例えば認知症を障害として捉え、認知症がある状態から「どのように生活していくか」というリハビリテイトの考えに沿うとしっくりくる。

この考えをケアとすると、障害はケア、病気はキュアと分けると良いかもしれない

では『認知症ケア』はどう考える?認知症をケアしている訳ではないし、他の障害ケアについても考えなければならない。

日本のニュアンスとして、リハビリテイトの考えを基本に置き『認知症生活ケア』とかはどうだろう?他の障害ケアも『高次脳機能障害生活ケア』、『視覚障害生活ケア』などとするほうが自然だ。

答えはすぐには出てこないかもしれないが、モヤモヤしていることを書いて、皆さんの考えるキッカケになればと思った。


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